スーツと彼と僕 1

 経費で落ちないらしいスーツの残骸をゴミとして処理してから、青島はちいさく溜息をついた。
 ――新しいの買わないとやばいよなぁ。ただでさえ薄給なのにこの出費、ありえないでしょ。
 頭の中のそろばんは、今月の給料と新しいスーツの値段を引き算した答えを弾き出した。その桁の少なさに泣きたくなる。これですみれに『奢ってくれなきゃ射殺する』なんて言われたら本当に破産だ。餓死でもして新聞の三面見出しに『刑事、自宅で死亡』なんて出たらどうしよう。案外、給料の見直しがされてみんな喜んだりして。……ありえないって言い切れないのが湾岸署だ。
 それはともかく、スーツが一着だめになったのはまぎれもない事実だ。とりあえず安物でも何でもいいから、新しいのを新調しないといけない。警察官になると、毎年一着背広だか制服だかが支給されると聞いたが、残念ながらそれはまだまだ先だぞと和久に言われてしまったので。
 ちなみに青島は初めての制服支給の際に、普段全く着れないような生地のスーツをもらうことになるとは知るよしもなかった。



「いらっしゃいませ」
 適当な愛想笑いを浮かべながら、青島は紳士服チェーン店でスーツを物色していた。これが四件目、である。なかなか手頃なお値段で動きやすそうなものが見つからないのだ。もう少し予算を上げられればいいのだが、あまりに無謀すぎる。
「お客様でしたら、こちらなどいかがでしょうか?」
「え、ああ……」
「まぁ、とてもお似合いですよ!」
 濃いグレーのスタイリッシュなスーツの値札をこっそりと盗み見て、青島は満面の笑みを浮かべた。
「……これ、もうちょっと安くなりません?」
 綺麗に化粧を施した店員の顔が、ぴくりと引きつった。


 結局、スーツは見つからず、ジーンズのポケットに手を突っ込みながらとぼとぼと歩いた。サラリーマン時代は営業という職務のために、それなりに見目のいいスーツを選ばなければならなかった。今はその必要はない、が、やはり少しぐらいは気にかけたい。
 ――せっかくの非番だったのになぁ。スーツ見つかんないし……。真下あたりでも呼び出して酒でも奢らせるか?警部になったんだし。
 思いっきり勝手な予定を立てながら(青島はそれがすみれにそっくりだと気づいてない)、ふと顔を上げる。見知った人影が視界の端を通った気がしたのだ。左右を見渡しながら、ある一点に注目した。ショーウィンドーの前で立っている男。
 ――あれって、室井さん?
 ぴんと綺麗に伸びた背中と眉間にシワの寄った難しそうな顔。それだけ見れば立派に室井慎次なのだが、それ以外がまるで違った。彼も非番らしく、服装はいつもの真っ黒なロングコートではなく、濃いチャコールグレーのコートと黒いスラックス。足がすらっとして見えた。髪も下ろしていて、かなり若い感じがする。難事件でも抱えてるような、あの表情がほころべば女性がひっきりなしに寄ってきそうな感じだ。
「……室井さん、ですよね?」
 少し迷ったが、近づいて声をかけてみた。案の定、室井は驚いたように顔を勢いよく上げて青島を凝視した。
「あ、青島です。湾岸署の」
「知ってる」
「そうっすよね。すいません。……えっと、もしかして今日、非番ですか?」
「ああ。君もか」
「はい。いい加減有給使えって怒られちゃって。――あ、そうだ。この前はありがとうございました」
 あの後すみれと真下から、室井が薬対課の管理官を抑えてくれたのだと聞いていた。彼があと五分待てと言ってくれたおかげで犯人を本店に引き渡し、雪乃を助けられたのだ。
「この前?」
「ほら、麻薬の密輸事件で岩瀬修が犯人の……って、室井さん覚えてないっすよね。すいません」
 でも、室井は解決した事件のことなんて、もう忘れて切り換えているのだと思う。あのときは納得なんかできなかったけど、今ならほんの少しだけ、分かる気がした。管理官とはそうしないとやっていけないぐらい、ハードな仕事なのだろう。
 だから、言葉の意味を理解するのが一瞬遅れてしまった。
「……覚えてる」
「へ?」
「岩瀬の事件だろ。まだ覚えている。だが私は礼を言われるようなことをした覚えはないぞ」
「や、室井さんが雪乃さん守ってくれたんですよね?薬対課の人から」
「規則を守っただけだ。……彼女を助けたのは君だろ」
 無自覚かよ、と思わずツッコミたくなったが、青島はそれをぐっと我慢した。ということは多分、別れ際に雪乃が言った礼の意味も分かってないんだろう。人生損しそうなタイプだ。
 ただ、室井が事件を覚えていてくれたことは、結構嬉しかった。もしかしたら特捜が立つような事件がなかっただけなのかもしれないけど。
「でも、室井さんがあと五分待ってくれたから全部うまくいったんですよ。それが規則のおかげでも、俺は室井さんに感謝してますから」
「……そういうものなのか」
「そーですよ」
 憮然とした表情で考え込む室井に笑いがこみあげそうになって、慌てて視線を室井から彼の見ていたショーウィンドーに向けた。
「あ!」
「どうした?」
 有名ブランドのスーツを着たマネキンを見て、青島は自分の目的を思い出した。そしてこの店の前にいるということは、もしかして。
「室井さんはスーツ買いにきたんですか?」
「……まあ。君は?」
「へ、俺?」
「その岩瀬の事件のとき、スーツぼろぼろだっただろ。経費で落ちるのか?」
「……湾岸署はケチなもんで」
「そうか」
 ――ああどうしよう、ちょっと雲行きが怪しいかも。一緒に見ようとか言われたら断りづらいよなぁ……。
 そしてその予想は見事に当たる。
「見ていくか?」
 ――こんなもん所轄刑事の給料で買えるか!!
 もちろん心の中で叫んだ。
「……や、あの俺こんないいもの着れないっすよ。似合わないだろうし?」
「君なら大丈夫だろ」
「ほら、俺なんかすぐスーツ駄目にしちゃうから安物のほうがいいんですよ」
「なら尚更ここのほうがいい。かなり長持ちするからな」
 一応上司にあたる人間に、まさか空気読めこのやろう!なんて言えるわけなく。
 営業時代に養った愛想笑いで切り抜けようとするも、室井はすでに店の中に入ってしまっていた。
「……マジっすか?」
 誰か助けてください。




 見るからに上品な店内で、青島はすぐに店員に捕まり、あれやこれやと言う間もなく着替えさせられた。
「似合ってるじゃないか」
「そう、ですか?」
「ああ」
 隣に立った女性店員のお世辞よりも、室井の一言のほうがよっぽど信憑性がある。
 確かにいいスーツだった。着心地も抜群でとても軽い。生地もしっかりしているし、正直言って、今持っている一丁裏よりもいいものかもしれない。ただ、問題は値段だ。
「気に入らないのか?」
「いえ。着心地とか、すごいいいっす」
 でも金がなくて……と苦笑いしながら言えば分かってくれるだろう。もはや意地もプライドもないが、仕方ない。というか、室井相手にそんなことをする必要もない気がした。
「あの、でも俺……」
 お金がと青島が言うよりも、室井が店員を呼ぶほうが早かった。
「これを包んでくれ」
「え!?は、ちょちょっと室井さん?何言って……」
「これで会計を。一括で」
 ――カード一括払い。さすがキャリア、じゃなくて!。
「かしこまりました。では、お品のほうをお包みいたしますので、着替えていただいてもよろしいでしょうか?」
 ちょっと待て。ここで着替えたら本当にこれを買われてしまう。本能的に愛想笑いを浮かべ、青島は後ろ髪を掻いた。
「いえ、あのちょっと待ってもらえませんか?」
 店員が不思議そうな顔をするのにも構っていられない。青島は室井を試着室に引っ張った。
「何だ?」
「何だじゃなくて!俺無理ですよあんな高いもの。いくら立て替えてもらっても来月払えるかだって分からないし……」
「立て替え?」
「え、だって室井さんカード出してくれましたよね?」
 室井の眉間が見事に寄った。青島から目を逸らして、言うか言うまいか迷うように、口許をもごもごと動かす。
「……新宿署の事件」
「はい?」
「君の意見通り、帳簿と裏金を調べた。そうしたら、被害者と営業先のある社員との間に取引があったことが分かった」
「あ、ニュースで見ました。あれ犯人逮捕できたんですよね」
「ああ。君のおかげだ。だから……いや、違う。それを口実にしたいだけかもしれない」
 なんだか宇宙人と会話しているみたいに感じるのは気のせいだろうか。会話にものすごく脈絡がないんですが。
「そのお礼で俺にスーツ、買ってくれるってことですか?」
「端的に言うとそうなるな」
「……それって、癒着になりません?」
「かもしれない」
 そんなにあっさり認められても非常に困る。
 新宿署の事件は意見を求められたからそれに答えたのであって、決して何か見返りが欲しかったわけじゃない。まして癒着?冗談はやめてほしい。
 コホン、と女性店員がわざとらしく咳き込んだ。買うのかやめるのかはっきりしろ、と言いたいのだろう。やめるという青島の言葉をさえぎるように、室井が彼女にカードを差し出した。
「買います。……青島、とにかく着替えてくれ」
「ちょっと、室井さん!」
「どっちにしたって、このままじゃ帰れないだろ。店にも迷惑だ。――嫌なら返品したっていい」
 室井はもう、何も聞かないというふうに背を向けて、会計のほうに行ってしまった。
「……何だよ、一体」


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