スーツと彼と僕 2

 店の外から少し歩いた公園で、スーツの入った紙袋を手渡された。まさか振り払うわけにもいかなくて、渋々といった形で受け取る。
 確かにスーツは欲しかった。でも、こんな風に買ってもらう筋合いなんてどこにもない。新宿署の事件のことだって、理由にすらならない。
「理由言ってください。俺、これじゃ納得できません」
 今度は室井も目を逸らさなかった。睨むような視線を感じて、その眼力の強さに一瞬たじろぎそうになる。青島も負けないように見返した。
「……君と出会って、私は現場の刑事を初めて見た気がしたんだ」
「今まで、名前を覚えるほど現場の刑事と深く関わったことがなかった。事件と同じで、解決したら彼らの顔も名前も忘れる。ずっとそうしてきた。これからも、そうだと思っていた」
 そういえば、一番最初に顔を合わせたとき、自分の名前を何度言っても室井は覚えてくれなかった。営業時代のクセでしつこいぐらい迫ったのと、湾岸署は『町中よりも事件が起こる』から顔を合わせる機会がたまたま多かっただけで。だから室井は青島のことを認識したのだろう。
「だが、君は違った。忘れさせてくれる間もなく私の前に現れる。そして本当の警察官とは何か、いつも私に問いかけてくる」
「……あの、どういう意味ですか?」
「本庁の捜査依頼をしたときのことを覚えてるか」
 忘れるはずもない。目の前で傷ついているひとがいるのに、正しいことができないあの悔しさ。辞めてやろうかと思ったくらいだ。
「君が騒ぎを大きくし、犯人を取り逃がした。私は君に失望した。そして君は、私に失望した。違うか?」
「……あのときは、悔しかったです」
「だろうな。だが私には分からなかった。君がどうして命令違反をしたのか。だが、君に怒鳴られて、思い出したんだ。どうして自分が警察官になろうと思ったのか。――それは、正しいことがしたかったからだ、と」
 無意識のうちに、え、と呟いていた。キャリアの人間が、そんなことを思って警察官を目指すなんて、考えもしなかったからだ。確かに室井は他の官僚とは違い、自分たちに近しい感じがする。けれどもそれは室井自身がだんだん変わっていったものだと思っていた。
「君は、私の理想の警察官だ」
 室井の表情が、ふっと緩んだ。笑っているわけじゃない。ただ、眩しそうに青島を見ていた。けれども青島はかぶりを振る。
「……そんな綺麗なものじゃないっすよ、現場の仕事は。大体俺は、室井さんにそんな風に言ってもらえるほど、いいことばっかしてるわけじゃないです」
 室井の言葉は嬉しかったが、同時に自分の未熟さを感じずにはいられない。だって、室井が見ているのは、自分の一部でしかない。正しいことだって、いつもできるわけじゃないし、卑怯なまねだってするのだ。
「わかってる。現場はそんなに簡単なものじゃないだろう。だが私は、君に感謝してる。君と会わなかったら、なぜ警察官になったかすら忘れて、ただひたすらに出世を目指す機械のようになっていたかもしれない」
「今は、出世に興味ないんですか?」
「出世はする。だが、前とは目的が違う」
「目的?」
 室井が静かに頷いた。
「本庁と所轄との壁を取り払って、君たち現場の刑事が正しいと思ったことをできるようにしたいと思ってる。……なかなか上手くはいかないが」
 本庁との確執を思い出したのか、室井の顔が強張った。しかし、それとは逆に青島は口許を綻ばせる。そうなれば、捜査はもっとスムーズにいくだろう。捜査員は皆平等でいられる。所轄の意見を上に届けることだって可能だ。
「室井さんなら大丈夫っすよ。俺、本店は好きじゃないけど、室井さんのことは信じてますから」
 このひとなら、多分やってくれる。根拠も何もないけれど、青島はそう確信していた。そして信じてくれた彼のために現場で頑張ることが、自分にできることなのだと。
 ――それはそれでいいけど、俺たち何か忘れてない?
「あ!!」
「どうした?」
「どうしたもこうしたも。結局このスーツ、買ってくれた理由をまだ聞いてません」
 きょとんとしたように室井が首を傾げた。
「……言ってなかったか?」
「全っ然言ってません」
 室井がくれた言葉は自分にはもったいないぐらいのもので、恥ずかしいけどうれしかった。でもそれとこれとはまた別だ。スーツの理由にはなってない。
 問いつめるようにじっと上目遣いをした。身長は青島のほうが上だが、やや猫背気味なので見上げることも可能である。彼は困ったように溜息をついた。
 ――ばれなかったらしらばっくれる気だったんじゃないの?
「君が岩瀬を引っ張ってきたとき、破れたスーツを見た。現場にいる以上、ああいう風になるのも仕方ないと思う。だが、それなら少しでも長持ちするものを着て、君に現場にいてほしいと思った」
「……まさか、それだけで?」
「それだけで何が悪い」
 ――悪いわけじゃないけど、あの値段のものをそれだけの理由で買ってくれちゃう意味はわからないよなぁ。
 さすがキャリア。それしか言い様がない。でも、そんな不器用な思いやりに、気がつけば青島は笑いが抑えられなくなっていた。
「室井さん」
「何だ」
「出世払いでもいいですか、これ」
 紙袋を目の高さに持ち上げて、軽く揺すった。今更ながらスーツの重みを感じるが、それは気にしない。
「君は出世するつもりはないんだろ?」
「刑事課の係長とかなら俺でもやれそうですけどね。や、そうじゃなくて」
 いくら安月給だと言っても、分割すれば代金を払うことだってできるだろう。でも、このスーツに室井が込めたものは、いつか払い終えてしまえるような形のあるものじゃない。それなら、それなりの返済方法を実行すればいいのだ。
「室井さんに胸張れるような刑事になれるように、現場で返します。……何年かかるか、わかんないですけど」
「そうか」
 室井が安心したように息を吐いた。笑ったりはしないのに、どうしてだろう。すごく優しい顔をしているような気がした。それが照れくさくて、茶化すように青島は笑う。
「ほんと言うと、実はまだちょっと迷ってるんですけどね。こんないいもの、俺が着るのはもったいないなぁって」
「そんなことないだろ。服なんだから、着なくちゃ意味がない。それに俺は君に着てほしい」
「なら、お言葉に甘えて。ありがたーく着させていただきます。あ、室井さん。無利子でお願いします」
「考えておく。君の働き次第だな」
「疲れるほど働くな、が空き地署のモットーですから」
 そう言うと、室井がわずかに眉間に皺を寄せた。


 その数日後、初めてそのスーツを着て刑事課に入った瞬間、勢いよく腕を掴まれた。
「うわっ……すみれさん?」
「どういうこと」
「は?」
「このスーツよ!!青島くんみたいな安月給に買えるような値段じゃないのよ、ここのブランド」
 布地を引っ張りながら恨めしそうに彼女は青島を見上げる。どこで誰から貢いでもらったの言えこのやろう、という声が聞こえたような気がしたと思ったら、取調室に放り込まれた。
「さっさと吐けば情状酌量にしてあげる」
「……言ったって何か奢らせるつもりだろ?」
「あ・た・り・ま・え!あたしだって、新しいスーツ欲しいのに」
「俺のは仕方ないの。この間の事件のやつ、経費で落ちないって言われるし。せっかく室井さんが……」
「室井さんですって?」
 あ、と思ったときには時既に遅し。自分よりも長く刑事をやっている彼女を誤魔化すことなんて不可能に近いと本能的に悟った。が、抵抗を試みる。なにせ彼女に奢るなら、スーツ一着だってかわいいものなのだ。
「あはは、あ、いや室井さんってあの室井さんじゃなくて別の……」
「青島くん」
 すみれは上目遣いでにっこりと笑った。
「吐かないと射殺する」

 結局、青島はすべてのこと(もちろん室井が自分に言ってくれたあれこれは省略した。というより、恥ずかしくて口にできなかった)を洗いざらいに吐かされて、ついでにやはり食事を奢るはめになった。
 いつものグルメ雑誌をめくりながら、妙に上機嫌な彼女を青島はうらめしそうに見上げる。
「すみれさーん。ディナーじゃなくてランチじゃだめなの?」
「いいじゃない。スーツ代浮いたんでしょ?」
「そりゃそうだけどさぁ。ならせめてもうちょっと予算低く……」
「何か文句ある?」
「……ありません」


 そして青島は知らないのだが、事件は翌日の同時刻、本庁でも起きていた。
「あ、もしもし湾岸署の恩田です。室井さん、あたしのこと覚えてますか?ほら、東北大コンプレ」
「……ああ。何の用だ」
「青島くんのスーツの件で」
「なぜ君がそれを……」
「刑事ですから。何か問題ある?」
「……」
「それで本題。あたしカニが食べたい。ちょうど雑誌に美味しそうなお店が紹介されてるのよねー」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味じゃない。別に青島くんに言ってもいいのよ?」
「何を」
「オトコが服を贈るのは、服を脱がせるためだ、って」
「なっ……!」
「ま、そういう意図はないだろうけど、室井さんって青島くんのこと……」
「恩田君」
「何ですか?」
「……君の好きなところに予約を入れておいてくれ」
「さすがキャリア、懐が違うわねー。あのブランドのスーツをカード一括で買っちゃうのも頷けるわ」
「キャリア、は関係ない」
「こりゃ失敬。青島くんだからよね」
「……恩田君」
「こりゃまた失敬。ま、青島くん全っ然気づいてないから。残念なことに。頑張ってねー」
 そして警視庁では、事件もないのに机に両腕をつき、険しい表情でうなだれる管理官の姿が目撃されたという。


***
オドル6話を見ていたら、なんとなくあのスーツの行方が気になりました。
「スーツは経費で落ちないけど、室井さんのポケットマネーで落ちるかもよ青島くん!!」と思って、書いたらなんだか違う方向に。あれ?
しかも書いてる途中、ブレーカーが落ちて全部消えました……。