youthful days・1

 振り返らないから、おまえも振り返るな。
 そう言うと、少し不思議そうに、鋭いつり目のはしを緩めてシゲは笑った。笑ったまま、手を振った。わかったという呟きは、ホームに滑り込んだ新幹線のごうごうと風をきる音のせいで、かき消されてしまった。けれども水野の耳には確かに届いて、その瞬間、自分たちの関係は、音もなく終わったのだ。

 何の因果だか知らないが、水野は桜上水のグラウンドに立っていた。遊ぶものもなにもないというのに、その横では弟がきゃっきゃと楽しそうにはしゃいで走りまわっている。
 Jリーガーになった今、シーズンオフ以外ではほとんど実家に帰れない。だからこそ、水野が戻ってくると一番にかけよってじゃれついてくるのが虎治で、実家にいる間は、弟のお守は自然と水野の仕事になっていた。今日も朝からベッドのうえに乗っかられ、遊びに行きたいときらきらした目を向けられてしまった。しょうがないなと思いながらふたりで散歩をしていると、いきなり虎治が言う。
「チィパパのがっこうにいきたい」
「え、学校?」
「うん!」
 学校と言われて、真っ先に思い出したのは桜上水だった。もちろん武蔵森に思い入れがないわけではないけれど、高校二年生のときから既にマリノスに入団していたからか、中学のような濃密さはなかった気がする。というよりも、この先ずっと生きたとして、あのときを超えるものが自分の人生のなかにあるかと聞かれたら、首をひねるだろう。それくらい濃密で、ハイスピードで、苦しくなるような、嬉しくなるような日々だった。
「チィパパ?」
「……小学校でいいか?」
 高校はたぶん間違いなく入れないし、中学には行きたくなかった。それに、虎治があと数年たったら入学するところは水野の母校でもある。ぴったりじゃないかとひとしきり言い訳を考えて弟を見ると、彼は首を振った。
「ちゅーがっこう」
「……あのな、トラ」
「だめ?」
 だからその目はやめてくれ。
 可愛い弟にそんなふうに見つめられて嫌と言える人間がどこにいるのだろうか。大体、昔から子供が苦手な水野にとって、弟のあしらいかたが今一つわからない。泣かせたくないし、失望されたくないと思うせいかつい甘やかしてしまうのだ。孝子や百合子はブラコンとしきりにはやしたててくるけれども、そうじゃない。嫌われるのが怖かった。
「……ちょっと遊んだら帰るぞ」
 どうせ何かしらの部活がやっていて、遊べるわけがない。そんなもくろみを立てて水野はまたはしゃぎだした弟が転ばないように、握っていた手に力を込めた。


 予想外に、グラウンドには誰もいなかった。そういえばテスト期間だから部活が禁止なのかと思いだしても、時、すでに遅し。虎治は広いグラウンドに目を輝かせて走っていった。小さいころからサッカーばかりの水野と比べて、彼はまだ一度もサッカーをしたことがないらしい。水野のプレーは見ているし、サッカーボールも触る。けれども父親はそれを強制させたりはしなかった。彼が選ぶのを待つのだという。母親はくすくすと笑いながら、お父さんも反省してるのよ、と目尻を緩ませる。それがいつかのシゲの表情と重なって、嫌になるくらい、苦しくなった。いとおしさを隠そうともしない表情だった。
「チィパパ!こっち!」
「トラ。転ぶからもっとゆっくり」
 歩けと言おうとしたところで、やはりというか、虎治は転んだ。慌てて傍に寄って怪我がないか確認する。膝を軽く擦りむいただけで、血も出ていない。ほっとしながら、必死で涙をこらえる弟のやわらかな髪をゆっくりと撫でる。
「えらかったな」
「うん」
「あっちに水道があるから、足洗って帰ろう」
 頷いて立ち上がろうとするちいさな身体を水野は黙って背負う。ぎゅっとしがみついてくる体温があたたかくて、いとおしい。
 水道の近くにはサッカー部の部室が見えた。元々遠いところにあったのだが、部員数の増加により収容が不可能になって、新しく作られたらしい。昔の部室はどこか別の部が使用しているという。一組しかなかったゴールも増えた。松下が正式に監督になり、今や都大会ベスト8の常連校となったと高井が嬉しそうに話していたのを思い出す。サッカー部は自分たちがいたころよりも前に進んでいて、もう、振り返ることすらしないのだろう。そうして少しずつ、けれども着実に痕跡が消されていって、虎治が中学生になるころにはきっともう、ここに水野がいたしるしはなくなるのだ。水野だけじゃない。高井も、風祭も、シゲも。
「水冷たいけど我慢するんだぞ。あと、ちょっとしみるかも」
「いたい?」
「大丈夫。男なんだから我慢しろ」
 やさしく洗いなおすと、それほど痛くなかったのか、強ばっていた身体から力が抜ける。持っていたハンカチで膝を拭いてから、水野はまた虎治を背負って歩き出した。
「チィパパ」
「うん?」
「チィパパはここでサッカーしてたの?」
「そうだよ」
「たのしかった?サッカー」
「楽しかった。すっげえ楽しかったよ」
 迷うことなく答えた。つまづいて、転んで、喧嘩して、悩んで、それでも走ったここでのサッカーを、未だに忘れたことはない。そしてそれと平行して、あの三年間のことを思い出すと必ずシゲの姿が思い浮かんでくる。出会いから別れまで、考えてみれば全部最悪だったような気がする。けれども、その一言だけで片付けられないようなものも同時に存在していた。
「トラ?」
 返事の代わりに、背中からは規則正しい微かな寝息が聞こえてくる。はしゃぎすぎて疲れたのだろう。起こさないようにゆっくりと、水野は歩き続けた。もう一生歩くことはないと思ったなつかしい道は、変わることなく水野の後ろからその先まで続いている。
 ――振り返らないって言ったのに。
 振り返るのも、立ち止まるのも、いつも水野だった。その横を平気でシゲは追い越していく。近かった背中はぐんぐんぐんぐんと風をきって遠ざかっていく。だからあんなことを言ったのだろうか。振り返るほどの過去なんて持ちあわせていないのに、ばかみたいに背伸びして、スタートをきった。けれども今だに競技場のトラックを回っているだけのような気がする。シゲはとっくに、路上に向けて走り出したというのに。


 週末にどこかへ行っていたシゲへの苛立ちは、選抜で上手くいかない自分へのもどかしさとともにどんどん高まっていった。むかつくと路上の小石を思いきり蹴りとばし民家の壁にくっきりと汚れをつけてしまってから、恥ずかしくなって足早に自宅に向かって歩いていた。そのとき、後ろから自転車のベルを鳴らされた。別に道の真ん中にいたわけじゃないので無視していたら、何度も何度も鳴らされる。追い越さないのかと振り返ると、金髪が笑っていた。
「やっと振り向いた」
「ベルじゃなくて最初から呼べばいいじゃん」
「なんか逃げられそうな気いしたんや」
 それが十中八九当たっていたので、水野はうっと腰を引いて、自転車から降りたシゲを見た。本能的な部分でひとの気持ちを悟ることに長けている彼には、少しの変化ですら見破られてしまう。身構えるだけ無駄なのだろうが、学習能力がなぜかシゲを相手にすると作動しなくなった。
「自分……まあ、別にええわ。乗ってく?」
「……は?」
「送ったるよ」
 古いママチャリの荷台を叩き促され、ああだこうだ言うまえになぜかそこにまたがっていた。いやいやいや。おかしいだろ。水野が口を開こうとすると、まるでそのタイミングを狙っていたかのように自転車が動き出す。荷台を軽く掴んでいただけだったのでバランスを崩しかけ、思わずそこにあった支え――シゲの腰にがっしりと腕を回していた。
「たっちゃんやらしー」
「バカ!ていうか降ろせ!俺は普通に帰る」
「せやかてがっちり掴まれたまま言われても」
「なら離すから止めろ」
「別にええけど、落ちるで?」
 うっと二の句も継げないまま、結局水野は腕を離すことなくシゲの学生服の背中を見ていた。秋なのに初夏の陽気だと天気予報が叫んでいたとおり、今日は暑かった。シゲは学ランの上着を鞄にいれ、ワイシャツ一枚で自転車を運転している。さすがに水野を乗せているから重いのだろう。背中が少しずつ汗ばんできていた。それを不快だとは思わない。裸で抱き合うときのほうが、もっとすごいのだから。――そう考えた自分自身が不快でたまらなかったが。


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