youthful days・2

「つーかおまえ、そこの角右だろ!?」
「ああ、ほんまや」
 ――こいつふざけてやがる。
 どうやら家に帰るつもりなんてないらしい。止める水野の声も聞かず、ただ一心にペダルを漕いでいる。
「おいシゲ!どこ行くんだよ」
「気の向くまま風の向くまま……」
「はあ?わけわかんねえ」
「とりあえず真理子さんが心配しない時間までには帰すから」
 ――それって何時だ。ていうか今何時だ。おまえはそんなに長い間自転車を漕ぐつもりなのか。
 心のなかの疑問は消化されることなく風に飛ばされるように消えていった。こうなったら止める術なんて皆無なのだ。
 自転車に乗っているあいだ、シゲはなにも言わなかった。聞きたいことがたくさんあるのに、水野も何も言えなかった。ただ、いつも追いかけている背中が目の前にあって、自分は振り落とされないように必死でしがみついている。まるでふたりの構図のようで、なんだか切なかった。この手を外せば、きっと自分は振り落とされて、シゲは見えなくなる。
 ――おまえは何を隠してる?
 シゲは変わった。誰にもわからなくたって、自分にはほんの少しだけわかってしまう。けれども何が変わったのかまではわからない。そこまで踏み込んでいいのか戸惑っているうちに、かわされてしまうから。それが言い訳に過ぎないことぐらい、水野にだってわかっていた。結局は怖いのだ。踏み込んで、嫌われてしまうことが。言葉には出したことがないけれど、水野はシゲが思っている以上に、彼のことを好きだったのだ。
「なあ」
「うん?」
「帰りたい?」
 唐突な質問に、水野は少し驚いて、顔をあげた。見たこともない風景が広がっていたけれど、なぜだか不安にはならなかった。
「……おまえが送ってくれるんだろ?」
 風に負けないように叫ぶと、シゲの肩がわずかに震えた。笑っているみたいだった。何がおかしいんだと言うと、聞こえんとはぐらかされて、恐る恐る片手の力を緩めるとシゲの背中を叩いてやった。
 ――おまえは、帰りたくないのか。
 週末になると行く、どこか遠くの地からここへ戻ってくることが、嫌なのか。尋ねることはやっぱりできなくて、水野は唇を噛んだ。苦しくて胸が震えることをごまかすように、届かない背中に額をつけた。シゲの片手が、しっかりとしがみついた水野の右手をぎゅっと握ってくる。痛いと呟くと、聞こえたか聞こえないかの音量で、ごめんなと返された。自転車がふらりと傾いたので、それは一瞬で離れていったけれど、その手のつめたさに、なぜか泣きたくなった。
 やがて家に着くころには、もうとっくに夜を迎えていた。夕食を誘おうかどうか迷っていると、シゲは片手を振って背を向けて走り出す。闇夜に白いシャツのコントラストが妙に目立っていて、見えなくなるまで、水野はそれをずっと眺めていた。


 後ろから自転車のベルが鳴ればいいのに、と何度思ったことだろう。東京駅から帰ってきたとき、実家に戻ってきたとき、ホームズの散歩をするとき、いつだって考えた。考えた自分を消し去りたくなった。
 本当はずっと傍にいたかったのかもしれない。けれどもそうしたら、確実に自分は潰れてしまうだろう。安らぎが依存になってしまえば、きっとひとりでは立ち上がれなくなってしまう。だから前を向く決心をして、あの日、シゲと対峙したのだ。
 あの日以来、シゲとは連絡すら取り合っていない。サッカー関係のことは知っていても、私生活――父親と和解したのか、家の跡取りはどうなるのか――については真っ白なままだ。それがよかったのか悪かったのか、水野にはわからない。ただ、傍らにシゲを求めるのを止めた途端、過ぎ去ってしまったあの日々だけが鮮やかに蘇るようになってしまった。
 ベルの音も、あの独特のイントネーションも聞こえないまま、実家にたどり着いた。相変わらず眠ったままの虎治を真理子に預けると、水野は階段を上がる。
「たっちゃん、葉書来てたわよ」
「葉書?誰から」
「見てのお楽しみ」
 悪戯っ子のような目をした母親に首をかしげると、自室の机のうえにある葉書を手に取った。宛名を見て、期待していた自分が情けなくなって、同時に申し訳なくもあった。風祭将と書かれた名前をなぞって、葉書を読む。メールで送ればいい文面をわざわざ葉書にするところが、彼らしいというか。海外暮らしが長かったせいか、未だに携帯電話は苦手なのだと笑っていた横顔は、もう大人のそれになっていた。だが、今度三人で会いませんか?という文に、水野は手の震えを抑えられなかった。
 シゲさんにはこの間の試合のとき、オッケーをもらってあります。水野君の都合のいい日を教えてください。
 平常心でいられるのだろうか。笑っていられるのだろうか。シゲの前で、少しは成長した自分を見せられるのだろうか。
 気がつけば玄関に向かっていて、さっき帰ってきたばかりなのにと真理子を驚かせてしまった。ただ、あの部屋にいたら余計な事ばかり考えてしまいそうだったから、ランニングシューズの紐を締めて、ちょっと走ってくるとドアを開けた。

 ストレッチもしないで全力で走りだすなんて、スポーツ選手にとっては致命的なことなのだが、今の水野にはそこまでの考えが回らなかった。とにかく無心になりたかった。そう考えれば考えるほど無心になれなくて、どんどんスピードをあげる。
 後ろからクラクションを鳴らされて、道路のはじに避けた。それでも横を車が通っていく気配はない。なのにエンジンの音だけは響いている。もう一度聞こえた軽めのクラクションに、呼ばれるように振りかえった。
「やっと振りかえった」
「……シゲ」
 黒いバイクにまたがるシゲが、あの日と同じように笑った。
「おまえ、どうして……。ていうか、それ、どうしたんだよ」
「最近免許とったんや。中型やけど、ツテでバイクも安く売ってもらえてな」
 ラッキーやろと言われても、水野はどうしようもない。息を少しだけきらして、意図がわからないままシゲを見上げた。髪型も変わって、何よりも大人びた顔に居心地の悪さを感じる。
「乗ってく?」
「は、あ?」
「送ったるわ」
 やっぱり水野がどうにかする前に、引きずられるようにバイクの後ろに乗せられていた。ご丁寧にヘルメットまでかぶせられる。視界が一気にせまくなって、何となく不安だ。
「しっかり掴まっといて。そうやないと死ぬで」
「は、おまえ、ちょっと待て!」
「ええから。ほら」
 腰に腕を誘導された。こんなところでこんなやつと心中したくないから、仕方なくおずおずと掴む。シゲがエンジンをふかし、アクセルを踏んだ。低いモーターの音とともに、少しずつスピードがあがっていく。あの自転車とは比べ物にならないような速さだった。
「おまえヘルメットは!?」
「何?」
「ヘルメット!!」
 風の音がうるさくて、会話なんてまともに成立しない。
「聞こえん!」
 目の前では長い金髪が揺れているが、間違いなくヘルメットなしはまずいだろう。法律違反だ。見つかったらどうなることやら。シゲはたぶん、自分の使っていたヘルメットを水野に渡したのだろう。しょうがないやつ、と思いながら革のジャケットに身体を寄せた。
 ――なにやってんだ、俺たち。
 五年ぶりにあって会話をするまえにバイク二人乗り(しかも道交法違反)だなんて。第一、どうしてこのタイミングで現れるのだろうか。
 大通りは警察に見つかるためか、シゲは小道を走っていく。曲がり角にきても迷うことなく進んでいくから、この道を知っているのだろう。
「どこ行くんだよ!」
「んー?」
「ん、じゃねえ」
 まったくとひとりごちて、それでも水野は降りたいとはひとことも言わなかった。しがみついたまま待っていると、バイクが止まる。右側に少し揺れたが、シゲが足をついたのか、倒れることはなかった。腕を離し顔をあげて、水野は思わず呟いていた。
「……ここ」
 変わってしまってはいるものの、ここはもしかしたら、あの日自転車で来た場所ではないだろうか。来た、というよりも、引き返した場所だろうか。
「覚えとった?」
「まあ……でも、なんで?」
 困ったように、シゲはさあ、と肩をすくめた。
「なんやろ。……ポチから聞いとるか?三人で会おうって話」
「ああ。今日、葉書で見たけど。それがなんだよ?」
「おまえのこと話しとったら、ここのこと思い出して、無性に来たくなった。それだけや」
 それだけ。それだけのために、京都から。それってそれだけって言えるのだろうか。混乱する水野を前に、シゲは独り言のように言う。
「振り返りたくならへん?時々」
「え」
「おまえは振り返るなって言っとったけど。俺はできへんかった。あの三年間は、やっぱ、他んとは違うみたいやった」
「シゲ」
「あんときはわからへんかったから、言わんかったけど。――振り返っても、前は向けるで」
 茫然として、言葉がひとつも出せなかった。名前すら呼べないくらい、水野の脳はフリーズしていた。同じことを考えていたのだろうか。自分と、シゲは。
 帰るかとまたバイクに乗せられる。あの日とは違う黒いジャケットの背中を見つめた。ずっと先に行ってしまっていて、いつだって置いていかれていると思っていたけれど、それがもしも、勘違いだとしたら。そんなこと一度だって考えなかったけれど、実はシゲも同じだったのだとしたら。
 ――ああ、俺たち、ほんとなにしてんだろ。
 心臓の音がばくばくと頭に響いてきた。恐々とシゲの腰に巻きつけた手を片方ずつ外し、代わりに背中に抱きついた。
 追いついた、と思った。ずっと追い求めていたものはこんなにも近くに、目の前にあったのだ。もしかしたら、あの日からずっと傍にあったのかもしれない。それなのに、こんなにも時間がかかってしまった。
 シゲの指先がほんの一瞬、水野の裸の指に触れ、そっと握った。それだけでもう十分だった。まだやり直せるのだろうか。違う。やり直すんじゃなくて、また始めればいいのだ。振り返りながら、今度こそ同じスタートラインに立って、走りだす。
「シゲ!」
 やっぱりごうごうと風の音はうるさかった。周りは知らないところだし、寒いし、最悪だ。けれどもあの日も今日も、金髪が目印のように揺れていて、なぜだかほっとした。不安じゃなかったのは、シゲがいたからだ。今更すぎて、ちょっと笑えそうだ。
「好きだ」
 どうせ聞こえないのだから、別にかまわないだろう。その言葉を口にしたのは、初めてだったから、緊張して、照れくさくて、苦しい。だから聞き間違えたのだろう。俺も、と返ってきたように思えたなんて。


***
文庫最終巻のおまけマンガに繋がります。
シゲ水っていうと青春だよねという勢いで書き上げたシロモノ。
ミスチルの同曲がイベで流れていて、そのままイメージしました。
青春って戻れないことがわかっているから綺麗でせつなくて、どんどん美化されていく気がします。
自転車は青春のツール。バイクはメットかぶんなきゃだめだよシゲ!