甘い手

 チョコレートの香りがあふれるデパートで、青島はふらふらと色めく女の子たちのあいだをさまよっていた。店の外に置かれた、色とりどりに包装されたチョコの入っているワゴンの中身をちらりと見ては、すぐに離れる(というより、女の子たちに阻まれて長々とはいられない)を先程から繰り返している。それは決して、ひとつもチョコをもらえないから自分で買って食べるというわけではない。青島にだって人並みにプレゼントを贈りたい相手だっているのだ。もっとも、彼がその日を楽しみにしているかと聞かれると、首を傾げるが。
 その日――世間では恋人同士の一大イベントとも言われるバレンタイン・デーだが、青島と室井とのあいだでは、別に大事な日だとはどちらも思っていない。主に同僚からの義理を返すのが面倒くさいのだ。その中でもある一名に関しては、下手なお返しなんか贈ったらそのあとがかなり怖いのだ。『三倍返し』と値札と一緒に箱にでっかく書かれている文字を見るたびに溜息が出てくるぐらい。
 室井も室井で、官僚婦人の肩書きを狙っているひとや、単純に彼に好意を寄せている女性たちから多数の本命チョコを押し付けられる。そしてそれを間食するのにかなり苦労しているようだった。
 つまり、お互いにバレンタインにときめきを感じる歳、でもなくなったわけだが、毎年その日が過ぎてから、青島は戦利品(かどうかは定かではない)の義理チョコを食べながら考える。あのひとは、もしも自分が何かあげたら喜んでくれるのだろうか、と。

 ――やっぱ黒のビターで、いやでも疲れてるんだからちょっと洋酒が入ってて甘いやつのほうがいいのかな?けど甘いものばっかりもらってうんざりしてそうだし……。ていうか、なんでチョコなのにこんなに高いわけ!?
 知らず知らずのうちに、まるで自分の恋人のように眉間に皺を寄せた姿がショーケースに映っている。なんだか切なくなってきて、慌ててその場からでたらめに歩き出した。そして見つけた喫煙室でアメスピをくわえ、溜息をつく。
 最初から、室井宛の本命に値段じゃ絶対に勝てないことぐらいわかっているのだ。今更落ち込んだってどうにもならない。彼はきっと、自分があげるものなら喜んでもらってくれる……と思う。少なくとも青島は、石ころ一個だとしても室井がくれたものならば嬉しいと感じるのだから。
 そういえば前に中身だけ食されて捨てられた箱を見つけたことがあった。箱のレベルからして普通じゃないのは一般人にだって一目瞭然なのに、貰った本人は「中身よりもこの磁器のほうが高いだろうな」と他人事のように言っていた。ちなみに燃えないごみの日に捨てていたのを見たことがある。ざまあみろとも思った。もちろん口には出さなかったけど。
 ――値段イコール気持ち、ってわけじゃない。室井さんだって、わかってくれる。
  そうは思うものの、なんとなく彼女たちと同じ――それもずいぶんと安い――ものを贈るのは気が引ける。気持ちじゃ絶対に負けない自信はあっても、気合や値段(つまり目で見える想いの丈)では完敗だからだろうか。それがめちゃくちゃ悔しいという負けず嫌いな自分の性分のためか、もう後に引くつもりはない。
 短くなった煙草の先をつぶし、腕を組んで思考をフル回転させる。正攻法で攻めたって勝ち目はないんだとしたらどうすべきか。ましてやそんなに予算はかけられない。それでも室井を喜ばせられるもの……。
「……だからぁ、バレンタインなんてさ、キモチなの。要は相手のことをどれだけ好きかってアピールするイベントでしょ。チョコの種類とか、甘いもの好きだとか、そういうのって見てないと気づけないわけ。そーいうところも試されてんの。――わかった?わかったなら早く来なさいよ。待っててあげるから」
 煙を吐き出しながら携帯電話を片手に話すOLの言葉。それを聞いた瞬間、青島は勝利への方程式を導き出した。
 ――恋人の特権、ってヤツ?あいにく室井さんの趣味も好みも把握しきってるじゃん、俺。
 聞こえてはいないだろうけど、彼女に心の中で礼を告げる。そして、室井のいつもの仕草や行動を思い出し、すぐにほくそ笑んだ。





 十四日の夜、絶対に室井さんの家に行きますから!という留守電を聞いたあと、室井はすぐさま帰宅の準備を進めていた。バレンタインという世にも迷惑な行事(室井はずっとそう思い続けてきた)のせいでまったく手につかなかった仕事を猛スピードで終わらせていく。そんな上司に向かって部下たちは宇宙人でも見るような目つきをしていたが、今の室井にはそんなことに気づく余裕もない。次々と片付けられていく書類の束がなくなったのと、定時の時計の針の音は同時だった。
 足早に官舎まで戻ると、見上げた自室にはすでにやわらかい光がもれている。青島がいる。そう思うだけで自然と急ぎたくなる自分に少し苦笑した。が、そこではたと手に持った紙袋の存在に気づいた。
 ――この場合、これはどうすればいいんだ!
 以前、チョコを食べ終わったあとの器を青島が発見したときに浮かべた嫌な表情を思い出す。まさか恋人の待つ家に中身入りでしかも手紙なんかが一緒に添えられているものを持って帰ることなんてできやしない。だからといって、警察官が路上にこんなものを放置していくわけにもいかないだろう。誰かに預かってもらうという選択肢もあったが、もしも一倉なんかに預けたら、中身の手紙を勝手に読まれ音読されるに違いない。
 とりあえず近くのコインロッカーの中にでも入れるかと室井がきびすを返そうとした瞬間。
「室井さん!早かったんですね。お帰りなさい」
「あ、ああ……」
 とっさに紙袋を後ろ手に隠す。――それこそが怪しいのだとわからないのは本人だけで、案の定あっさりばれてしまった。
「それ、バレンタインの戦利品っすか?」
「…………ああ」
「すげーたくさん!もてもてじゃないっすか。室井さん、俺よりすごい」
 普通に会話をしていて笑顔のときが一番恐ろしいことを身をもって知っている室井は、青島がてっきり怒っているのかと思った。しかし彼はいつも通り、むしろ機嫌がかなりいいような雰囲気で部屋に入っていく。
 ――俺がチョコレートをもらっても気にしてない、ってことか?
 そう考えると、なんだかすべてが疑わしく、不安に思えてくるのは職業柄のせいかは定かではない。けれども室井はどうしても信じられなかった。
 別に嫉妬で愛情を試すわけではないし、青島を疑っているわけじゃない。でも、自分なら、恋人がバレンタインに何かをもらっていて、それがたとえ義理だとしても嫌な気分になってしまう。青島だって去年は同じだった。だが、今年は、言うに事欠いて、楽しそうに見える。
「あ、先にメシの準備しちゃいました。鍋でいいっすよね?」
「……ああ」
 先程まで使っていたのであろう、キッチンの椅子にかけられていたエプロンを素早く身につけ、青島はせっせと鍋の用意をしている。いつも食事を作るのは自分だから、その珍しい姿が逆に不安を煽り立てる。
「よかった!あ、実はポン酢がなくなっちゃって、ちょっとコンビニまで買いにいってたんですけど、そしたら室井さんが帰ってきてて。ちょっと嬉しかったけど残念だったな」
「残念?」
 言葉尻を捉えて、どういう意味だと問いただしたくなる。ネガティブな思い込みは頭の中でウイルスのように感染して、どんどん思考を埋め尽くしていった。
「残念ですよ。だってね、俺――」
 青島の言葉を消し去ったのは、コンロにかけられたヤカンのけたたましい音だった。そのせいで一番重要なところが聞き取れなかった。死刑の宣告を受けるときの気分は、もしかしたらこんなふうなのだろうかと思う。わかりきっていることを、もったいぶって言われることが、どれだけ辛いか。
 ――よりにもよって、今日はバレンタインだぞ!?
 迷惑極まりない日だと思っていたことも忘れ、室井は憤りながら青島の腕を掴んで振り向かせる。とっさのことで驚いたような丸い瞳とぶつかったとき、手に持ったままだった紙袋の中身を、すべてゴミ箱へと落としていた。
「ちょっと、何してるんですか室井さん!ていうか今なんか割れた音が……」
 突然の室井の行動に戸惑って、固まったままの身体を引き寄せて抱きしめる。耳元でささやく。
「こんなものなんかいらない。いくら割れたって構わない。だから、青島」
 目の前のいとおしい人間をつなぎとめておくには、どうしたらいいのか。考える間もなく、乏しいボキャブラリーで伝えられる精一杯を口にするしか室井にはできないのだ。
「そばに、いてくれ」
 打算も何もなく、本能のままの言葉だった。それでも、今の心境にぴたりと当てはまるピースはこれ以外に何も思いつかなかった。それは愛しているとか好きだとか、相手に一方的に感情を告げるよりも、はるかに重い意味合いを持っている。だからこそ、ずっと前から何度も何度もためらった。この自由な男を縛りつけたくないのだと自分に言い訳をしながら、本当は拒絶される恐怖に怯えていたのかもしれない。
 しばらくぽかんと腕の中に納まっていた青島が、いきなりぎゅっとしがみついてきた。すげーうれしい、と呟きながら。
「うぬぼれちゃって、いいですか?言葉どおりの意味にとっちゃいますよ?離れてくれって土下座されたってずっと一緒にいちゃいますよ?……それでも、いいですか?」
「……ああ」
 好きなだけうぬぼれればいいんだと、抱きしめる腕で伝えた。正しく彼が理解できたかどうかはわからないが、それはきっと関係ない。別に何の問題もないのだから。
 だがそのとき、室井の頭には何かが引っかかった。どうも自分は一番重要なことを差し置いてるような。大体どうしてあんなに必死だったんだ、と思った瞬間、室井の脳裏に先程までの自分の思考がフラッシュバックしてきた。
「……お前、俺と別れたかったんじゃないのか」
 甘い雰囲気がガラガラと音を立てて崩れ去った。当然のように室井の変わりようを理解できず、困惑する青島。
「は?何言ってんですか。そんなわけないじゃないですか」
 だってお前と言いかけて、ひとつの可能性に(今更)辿りついた。
 ――まさか、俺の勘違い?
 そうだとしたら、かなりまずい状況である。いや、それならどうして青島はあんなに上機嫌だったんだと目を剥いて脳内コンピューターをフル回転させるが、答えは弾き出されない。
「室井さん?むーろーいーさん!フリーズしないで続き聞かせてくださいよ」
 腕を開放してすこし上背のある男を見た。
「その前に、お前こそさっきの『残念だ』って」
 彼はきょとんとして、それから快活な笑顔を出す。
「あれは室井さんを出迎えて驚かせたかったなーって思ってて。それができなくて残念だなって。…………え、もしかして室井さん」
 その時点ですでに、今回の騒動が室井のはた迷惑な勘違いだったということが証明されてしまった。こうなってしまうと、室井に逃げ道なんて残されない。なんてったって、相手は現場の刑事なので。
 青島は本日最高潮の笑みを見せて、室井のシャツのすそを引っ張った。
「取調べしましょう。自白すれば罪、軽くなるかもしれませんよ?」


 あっさりとすべてを話してしまったおかげか、取調べは数分で終了した。ソファの隣に座った青島は始終爆笑していて、それがものすごく気にいらない。
「キモチの勝負なんですよ、バレンタインって」
 一通り笑いこけたあと、ふと青島がそんなことを話し始めた。不意に床に置かれたバッグから小箱を取り出すと、彼はそれを室井に手渡した。掌よりも少し小さな、黒い包装のされた軽い箱。目で開けてくださいと訴えられたので、室井は包装紙を破かないように丁寧に剥がしていった。ふたを開けると革特有の匂いが漂ってくる。――黒い上質な皮の小銭入れだ。
「……よく、わかったな」
 ずいぶん前に、今使っているのが古くなったという話をしたような、しなかったような。自分自身でさえおぼろげな記憶を、青島はちゃんと覚えていたらしい。
「室井さん観察なら誰にも負けませんから。だから俺、チョコくれた女の子たちに勝てるって自信満々でここに来ました」
 青島はあっさりとしているが、ブランドには詳しくない室井でさえ、少しは耳にしたことがある横文字と、手になじむやわらかい革。それが小銭入れの値段の上での価値を室井に教えている。だが、それ以上に青島がくれたという時点で、価値なんてつけられない大事なものへと変わっているのだ。
 それなのに、青島は「俺負けちゃいました」と半ば拗ねたように唇を尖らせる。そのわざとらしい仕草がわかりやすくて室井は好きだった。
「元々、勝敗なんて関係ない。お前がくれた時点で、青島の勝ちだ」
「当たり前じゃないですか。女の子たちなんて俺の敵じゃありません。――室井さんですよ」
「俺?」
「まさか全部捨てちゃうなんて思ってもみませんでした。あの瞬間室井さんに負けたなぁって」
 キモチの勝負なら勝てる自信あったのに、と悔しそうに、けれども幸せそうに微笑まれると、負けたのはこっちのほうだと教えてやりたくなる。けれども、どうせ青島は信じないだろう。変なところでひねくれている男だ。
 ――それならそれで、今回は引き分けか。
 室井は黙って、今の小銭入れから中身を移しかえるとそれを家の鍵や長財布やら、いつも持っていくものと一緒に置く。新品の黒い色がつやめいている。そして、反射してぼんやりと革に映るひかりは優しい明るさをしていた。
「俺はまだ勝ったつもりはないぞ。……変な勘違いもしたしな。だから、三月十四日、期待しててくれ」
「……室井さんって、変なところで負けず嫌いですよね。せっかく勝たせてあげたのに」
「お前も似たようなものだろ。悔しいって言ったじゃないか」
 目と目がぶつかって、数秒後、同時にふきだした。ゆっくりと顔を近づけていくと、額と額がこつりとぶつかる。青島がささやいた。
「俺も、家帰ったらチョコ、ゴミ箱に捨てますから」
「……恩田君からのもか」
「あれはもう食べちゃいました。あとは全部、大丈夫。…………室井さん」
「ん?」
 ――そばにいさせてください。
 呟いた彼の唇を、乱暴に奪った。



 嵐のような夜が過ぎ、一足先に慌しく出かけていった青島を見送って、室井の朝はスタートした。そのまま昨日の夕飯(正確には夜食になった)の鍋を片付け、出勤準備を整える。もらったばかりの小銭入れを手にとって、ポケットにしまおうとする。
 だがそれよりも早く、室井はテーブルの上に置かれたメモのような紙を見つける。それを開くと右上がりの文字が目に飛び込んできた。思わず口元をふっと緩めたが、内容を目で追っていくうちに、微笑みは苦笑に変わっていた。
「やられた。……俺の完敗だ」

『小銭入れなら、使うたびに俺のこと思い出すでしょ?これなら絶対、俺の勝ち!!』

 そのメモを折りたたむと、室井はそれを小銭入れの中にしまった。そうして小銭入れを軽く握りしめてみる。自分の体温が移ったやわらかい入れ物は、夜中に繋いだ青島の甘い手を思い出させた。

***
お財布を買ったことを日記に書いていたら、青島くんの最後のメモの言葉を思いつきました。流行に乗れない今更バレンタインのバカップル。
ちなみに某デパートに磁器に入ったチョコが二万以上で売られていたり、銀食器とセットで一万いくら、とすごいことになっているそうです。
あんまり後書は長いこと書いてもしょうがないんですが、MISIAの「そばにいて…」が頭から離れませんでした。なのにタイトルはスピッツ。