こんな恋のはじまりかた
気まずい。非常に気まずい。
青島と室井はお互いの姿を認識したとき、相手の胸元を真っ先に見、そうして同時にため息をついた。
「どうして君が俺のネクタイを着けてるんだ」
「それ、丸々俺のせりふです……」
いつも全身黒に近い配色の室井。その胸元のネクタイが今日は妙に浮いていた。何せ真っ赤なのだ。
そして青島。スーツは無難にグレーや黒系だが、ネクタイは彼の性格を表したような明るい色のものが多い。だが今日はいったいどうしたのか、真っ黒だ。
そう。つまり彼らは『間違えた』のだ。そりゃもう、ありとあらゆるすべてを。
「……ええっと。今日の話、早速なしになっちゃいましたね」
「そう、だな」
今朝。自分たちの置かれた状況に気づくなり目も合わせられなくなったふたりは、とりあえずベッドのなかで背中合わせに「しばらくは会わない」ということを約束したのだ。というか室井が一方的に持ち出してきて、青島もどうしていいのかわからなかったから、ただ頷いてしまった。
ただ、その「しばらく」が一体いつまでなのか。明日明後日の問題ではなく、一年後、最悪の場合もう二度と会えないのかもしれないと思った瞬間、青島は嫌だなあと思った。関係を持ったことよりも、室井に会えないほうが辛い。そこでやっと、自分の気持ちに気づいてしまったのだが。
――ていうか、ふつう、「着替えてくる」って言ったまま帰るか!?
確かに顔も見たくなかったっていう論理はわからなくもない。けど、それって相手に対して失礼じゃないのかと思い、今まで感じていた寂しさだとか辛さとかいとおしさとか、それが全部「怒り」に代わってしまった。
だから気づかなかったのだ。
室井が持っていったのが実は青島のネクタイで、青島が身につけたものが、室井のネクタイだったということに。
当分会わない宣言をしていたにも関わらず、その事実を知ったとき、青島は電話せざるを得なかった。なんてったって、喪服と勘違いされたり、彼女に振られて落ち込んでいる(まあこれは少し事実に近い)のだと気を使われてしまったのだ。
そしてこのネクタイの持ち主もさぞかし苦労していることは容易に想像できた。年中モノトーンの男が赤いネクタイ、しかも眉間にしわを寄せたキャリアだなんて笑えない。
案の定室井はワンコールで電話に出て、「早退しろ」と言ってきた。それはいくらなんでも、と返すと「袴田課長には俺から言っておく」。そしてその言葉通り、青島の早退はすんなりと受け入れられ、刑事課の連中からなぜか同情のまなざしで見られた。背後で彼らが自分の早退する理由について様々な憶測――邪知ともいう――を交わしていたが、本当の理由を知ったらたぶん、殺される。ただでさえ忙しいのに、たかが「ネクタイを間違えたから仕事できません」なんて。
とりあえずそんなこんなで、ふたりはネクタイのためだけに早退し、ネクタイのためだけに会うことになってしまったのだ。
指定されたビジネスホテルの一室。なんでホテルなんだとデリカシーのなさに怒りたくなったが、考えてみれば人前でネクタイを交換すること自体異常なのだ。昨日うっかり情事を行った青島の自室は避けるだろうし、室井の官舎では人の目もある。妥当と言えば妥当なのだろうが、青島は頭を抱えたくなった。
「とりあえず、さっさと元に戻すぞ」
「あ、はい」
一緒にいたって会話が弾まない以上、さっさと要件を終えて今度こそしばらく会わないほうがいい。
そう思ったのかどうかは知らないが、室井に急かされて青島はネクタイの結び目を解こうとした。だが。
――う、わ……。
しゅるり、と室井がネクタイを解く。その首元に釘付けになった。なにせその光景は、おぼろげな記憶を引っ張りだすのに十分なくらい、昨日と同じだった。そしてものすごく色っぽいというか、綺麗というか。
「青島?」
まだ青島が外していないことに疑問を感じたのか、室井が怪訝そうな顔つきで見てくる。そういえば、あれから名前を呼ばれたのは初めてかもしれないと思いつつ、青島はのろのろとネクタイを外しにかかった。
――たぶん、これを返したら、今度こそ本当に会えなくなる。
朝の不安とは違い、これは確信だった。今度こそ室井は青島と完璧な距離を置くだろう。ふたりがまた冗談を言い合える時が来るまで。
でも青島はもう気づいている。自分の気持ちがどこにあって、その中心に誰がいるのかということを。
――返したくないなあ、これ。
今持って逃げれば、また室井に会えるだろうか。そんな子供じみたことを考えて、青島は苦笑する。きっと彼は追いかけてこない。自宅に帰れば替えのネクタイなんて困らないくらいには所持しているだろうし、また新しいものを買えばいいだけの話なのだから。
「すいませんでした」
黒いネクタイを差し出す。
「いや、俺のほうこそすまなかった。最初に間違えてしまったのは俺だから」
「何言ってるんですか。気づかなかった俺にも責任はありますし。同罪ですよ同罪」
他人から見れば仲のいい友人同士の会話にも聞こえるだろうが、肝心なことは、なにひとつ、言葉にしない。できない。それがもどかしくて、悲しかった。
慣れた手つきで首に着けられるネクタイを、青島はただ黙って見ていた。自分が着けると浮きまくるそれも、室井がすれば一枚画のようにすんなりと絵になっている。
「……室井さん」
無意識のうちに名前を呼んでいた。抑えられない欲求が湧き上がってくる。触れたいというのもあるけれど、それよりも、今は心のほうが欲しかった。自分の気持ちをぶちまけてやりたかった。けれどもいざとなると、どうしてもだめで。
「どうした?」
「いえ……」
――俺の意気地なし!
と怒鳴ってやりたくなる。
頭を抱えてその場にうずくまりたくなるのを必死で抑えると、青島は、とりあえず好きだ以外の自分の気持ちだけでもせめて伝えようと思った。たとえば、昨日の行為、別に嫌悪してるわけでもなんでもないとか、室井とまた飲みたいだとか、都合のいいことを。
曖昧に逸らしていた視線を、目の前の厳格な男のほうへ持っていく。なんとか成功したが、そこから先、口を開くことがどうしてもできなかった。やっぱり意気地なしだ。
しかし。
青島を見返す室井の目。戸惑いの奥に、何かが隠れているみたいだった。その何かがわからない。わからないけれど、次の瞬間、青島は本能に導かれるまま行動に出た。首元の黒いネクタイを引っ張って相手を引きよせた。
歯が当たってもかまわない。唇以外の所に触れたって別にいい。ただ、少しでも室井を思い知らせてやりたかったのだ。
――ひとのこと好き勝手しといて、それで勝手に出てって、勝手にこんなとこ呼びだして。嫌がってくれればいいのに、あんな目しちゃってさ。
だから少しぐらい悩め。どうせ見込みなしの片思いなんだから振られたって別にいい、と思いつつも、嫌がる室井の顔なんて見たくなかったから、触れる直前で目を閉じた。どうせ一瞬の接触なんだ。昨日とおなじ、「酔った上の事故」のような都合のいい理由がつくだろう。
けれども青島のそんな予想は見事に打ち砕かれた。
「ん……!え、ちょ、んっ」
唇が触れた。偶然の接触ではなく、明らかに触れ続けている。
慌てた青島が離れようとしたが、それは尚も留まり続け、終いには舌まで入れられてしまった。わけもわからぬままそれに応え、結局気がついたときにはふたりとも、息があがっていた。
「室井、さん?」
どうしてと問う代わりに名前を呼ぶ。
憮然とした表情で、室井は青島を射抜いた。
「おまえが悪いんだ。目なんか、瞑るから」
そうじゃなかったら、事故で済んだのに。
悔しそうに、仕方なさそうに呟きながらも、どこか優しい響きに胸の奥が満たされるのを感じていく。
「……ええっと、もしかして室井さん、俺のこと好きなんですか?」
もしかして、と言いながらも、ほとんど確信していた。
たぶん、青島が自覚するよりも前――少なくとも昨晩、この男は素面だったのだ、と。
室井にしてみれば、本当に魔がさした、としか言いようがないのだろう。だから今朝青島から逃げるように背を向け、しばらく会わないとなんて言ったのだ。きっと自分の気持ちに収拾をつけるためだろう。本当のことなんて、彼にしかわからないのだけれど。
「おまえこそどうなんだ。酔ってもいないのに、こんなことして」
「俺ですか?好きですけど」
あっさりと言い放った青島に拍子抜けしたかのごとく、室井が溜息をついた。
「ちょっと、もう少し嬉しがってくださいよ!」
「……本当にいいのか?」
最後通告だと言うかのように、真剣なまなざし。青島は一度だけ頷いた。
「室井さんは?」
「たぶん、好きなんだと思う」
「……たぶん、て何ですか」
「久しぶりなんだ。誰かを、その、好きになるのは」
だから勝手が分からなかったと白状する姿に、なんとなく嬉しくなって、青島は室井に飛びついた。青島の図体は一般人よりもでかいため、一般人である室井に受け止められるわけがなく。硬いベッドの上に倒れこんだ。
「いつから?」
「……秘密だ」
「え、ずるいっすよ!そういうの」
「うるさい。青島こそ、昨日はなんとも思ってなかっただろ、俺のこと」
「気づいてたんですか?」
「当たり前だ」
なんとなく悔しくなって、青島は声をひそめるように、室井の耳元でささやいた。
「気づいてはなかったですけど、たぶん、ずっと前から俺、室井さんのこと好きだったんだと思います」
今、ものすごく近くにある難しい顔がかすかに笑った。痛いぐらいの力でぎゅうっと抱きしめられて、青島も笑みをこぼす。
「好きだ」
「今度は『たぶん』じゃないんですよね?」
「たぶん」
その返事に、顔を合わせて、笑った。
***
「うっかり」っていうシチュエーションが大好きです。
スーツの次はネクタイかよ、って怒られそうですが。
ちなみに一課での室井さんは赤いネクタイのせいで浮きに浮きまくり、部下たちはみんな室井さんを怖がって提出書類を一倉さん(一課長)に出しました。つまり部下→一倉さん→室井さん、という図式になり、そのせいで室井さんはよりによって一倉さんにネクタイを指摘され、すべてを知られてしまったというウラ設定。