コイビトの定義
きっかけは、ほんの些細なことだった。
久しぶりに一倉と飲みにいく約束をして、馴染みの居酒屋で日本酒をあおっていた。と、そこに、たまたま一倉の奥方が居合わせた。彼女は一倉よりも十歳近く若いんだ。――ああ、見合い結婚だ。だが気持ちが悪いくらい未だに新婚夫婦のような雰囲気だぞ。それで、奥方は大学時代の旧友を連れていたんだ。もちろん女性だった。俺たちは、彼女ふたりと一緒に飲みはじめた。
……違う。俺が誘ったんじゃない!一倉、余計なことを言うと追い出すぞ。
その居酒屋には、地方の地酒が置いてあるんだ。俺はたいていそこで秋田の地酒を飲んでいるんだが、奥方の連れの女性が、それに気づいた。彼女も秋田出身だったんだ。東京ではあまり言わないだろ、自分の出身地なんて。それに俺はむこうにあまり帰ってないから、なんだか懐かしかったんだ。それで、つい……。
「……それで、ついメルアドと番号交換して、秋田の美味い地酒がありますって言われてつい一緒に飲みにいって、ついお礼にまた誘って、それでつい告白されちゃったんですか?」
にっこりと笑顔を浮かべて(けれども目は笑ってなかった)証言を求める青島に、室井は口ごもる。なにせ、彼が言っていることのぜんぶが真実なのだから否定できないのだ。力なく頷くと、本日何度目かわからない謝罪をする。そんなもので彼が満足してくれれば、何の問題もないのだが、そう上手くはいかない。
「青島、お前室井とどのくらい会ってなかったんだ?」
「二月です。あ、正確には六十日と十三時間」
「そのあいだに室井はオンナと二回も会っていた、と。やるなお前、意外にタラシか?」
いつもは大雑把なくせに、こういうときだけ妙にきっちりしている青島。そして勝手に室井の動向を報告していた一倉。いつもは喧嘩――というか、一倉が青島をからかって、青島がムキになってそれにつっかかる、というもはや小学生レベルの争い――ばかりしているふたりが、なぜか今回は協力している。むしろ一倉は思いっきりこの状況を楽しんでいるようだ。
「違う!だいたい何でお前がここにいる」
「俺が呼びました。室井さんがばっくれないために証人が必要だと思ったんで」
――誰がしらばっくれるんだ。俺はそんなに信用がないか。
……とは、さすがに言えなかった。今回の件は、告白されるまで相手の気持ちにまったく気づかなかった室井にも非があるのだ。そのせいで彼女を傷つけてしまい、そして青島とは険悪な雰囲気になった。すべて自分が撒いた種なのだから、文句のひとつも出せない。
「だいったい、なーにが『東京で秋田のひとに会ったの初めてで、すごく嬉しかったんです。ずっと一人暮らしだったから、心細くって。誰かと一緒にいて安心できたの、こっち来て初めてです』だよ!もうかれこれ五年以上いるんだろ東京に。こっち来て初めてなわけないじゃん。どーせ彼氏のひとりやふたりいたんだろ?こんなメールに騙されたんですか室井さん」
「……一倉、お前メールまで勝手に送ったのか」
どうやら彼女とのやりとりをしたメールの内容が書かれた紙の束を音読しながら、ばっかじゃねーのと罵りまくる恋人。酒も飲んでいないのに悪酔いでもしてるのか、と疑いたくなるような絡みかただ。
「無用心だな室井。送信メールと通話履歴もリストアップしてやったぞ」
「……警察官が犯罪してどうする。立派なプライバシーの侵害だ」
「何言ってんですか室井さん。室井さんだってね、犯罪者っすよ。俺の人権侵害。法律どころか憲法違反?」
室井の眉間の皺が深くなる。無言でさっさと帰れこのやろうと脅しかけると、一倉はお手上げのポーズをとった。
「わかったわかった。ならあとは頑張れよ室井。裁判に持ち込んだって負けるのは目に見えてんだから今のうちに土下座しといたほうがいいぞ」
「お前に言われる筋合いはない!……青島、どうやってこいつを買収したんだ」
「関係ないでしょ室井さんには。じゃあ一倉さん、どうもありがとうございました。あとは俺がみっちりお仕置きしますんで」
「おお、お仕置きかあ。いい響きだなぁ」
ふたりの変な視線を感じて、室井はいっそう眉間を強く寄せた。
一倉が帰ったあとも、話し合いは平行線をたどった。というよりも、青島にはさらさら許す気がないようで。
「なーんか俺、魚住係長が前に奥さんの浮気疑ってたときの気持ち、分かるなぁ」
などと言いながら、浮気についての講釈を延々とする。最初は罪悪感からそれに付き合っていたが、だんだん腹が立ってきた。
「おい。何度も言ったが、俺はやましいことはしていないぞ」
青島の目が細められる。そこに見えるのは、激しい怒りだ。
「何もしてない?は、よく言えますよねそういうこと。会ってたじゃないですか、ふたりっきりで。充分やましいでしょ」
「お前だってよく合コンやら交通課との飲み会に行ってるじゃないか!」
「俺は女の子とふたりっきりになんかなりませんよ。ましてや告白?そんなんされるような雰囲気作りませんから」
痛いところを突かれて、室井には返す言葉がない。黙ったことをイエスと受け取ったのか、彼は表情をぐしゃりと歪めた。むかつく、と吐き捨てた。
「こういうのって、期待させちゃうような態度とるほうが悪いんじゃないんですか。あ、実は室井さんも知ってたんじゃないの?彼女に好かれてるって。まぁ悪い気はしませんよねそういうのって。で、あわよくば彼女をお持ち帰りとか……」
「違う!」
思わず声を荒げた。
「確かに、結果的には彼女を誤解させてしまった。そういう態度を俺がとったんだろう。それは事実だ。だが青島、お前には俺が彼女をどうこうするような人間に見えるのか」
自分でも卑怯な言いかただと思った。これではまるで、そうじゃないと首を振ってほしいと頼んでいるみたいだ。でも、他の何を誤解されても、それだけは信じてもらいたかった。
「……見えない、とは言い切れません」
だから、言葉を失った。信じられないかった。そんな風に言われるなんて。
呆然とする室井の前に、青島が近づいてきた。胸倉を掴まれる。
「……なんであんたがそんな顔すんだよ」
押し殺したような、低い声。激情が全身を支配しているような青島だが、わずかな異変がそこにあった。瞳が揺れている。
「あお、しま……?」
ゆらゆら、ゆらゆらと。部屋の明かりに照らされて、それはきらりと反射した。
「なんでそんな……傷ついたって顔してるんだよ!あんたが!」
すぐにその雫が頬を伝って透明なラインを描いた。青島の隠れた気持ちを表すかのような涙は、何よりも雄弁だった。
「傷ついてんのは、ショックだったのは俺のほうだ!」
最初に彼女と会ってるって話、一倉さんに聞いたとき、俺全然信じなかった。だって室井さん、そんないい加減なひとじゃない、浮気なんかしないって……。
俺がこのメール見たときの気持ち、あんたにわかりますか?ほんと、すげぇむかついた。この彼女の携帯に電話して、室井さんは俺のだからって言ってやりたかった。でも、まだ飲みにいってるだけだ。ただの友達だ。そう、自分に言い聞かせてたんですよ。室井さんにだって付き合いもある。俺はそこに踏み込む資格なんかないし。
「……青島」
「室井さんが告白された、って。一倉さんに言われて、焦った。だって二か月俺とは会ってないのに、彼女とはそんな親しくなってて。もしかしたら、俺が振られるんじゃないかって、そう思ったら……」
「青島、もういい。――すまなかった」
掴む、というよりも縋るように胸倉にある彼の指をそっと外し、引き寄せた。青島は駄々をこねる子供のように暴れた。かぶりを振ったせいで、少し長めの髪が室井の顔に振れる。
「……悪かった」
彼女の気持ちに気づけなかった。室井はずっとそのことを後悔していた。
「不安にさせて、傷つけた」
でも、本当に自分が傷つけたのは、彼女じゃなく、腕の中にいる彼だったのだ。
「本当に、すまない……」
声も出さずに涙を流す青島の姿を見て、それにようやく気づいたのだ。やはり自分は鈍いのかもしれない。
「遅いよ、今更……」
「そうだな」
「室井さんのニブチン!バカ!サイテー!」
「……そうだな」
頭に浮かぶ限りの悪口をひとしきり並べる青島を黙って抱きしめながら、優しく髪を撫でていた。そんなことしたって騙されませんから、との抗議が出たが構わない。この手を止めてしまったら、青島も離れていくような気がしたから。
そのうち青島が何も言わなくなった。悪口の手持ちがなくなったらしい。無言でしがみついてくる。わざと背中に爪を立てられたが、その痛みでさえもいとおしかった。
そのとき、電話が鳴り響いた。自宅回線のほうなので、さして重要な用件じゃないと判断した室井はそのまま動かない。もっとも、今の彼に青島と一緒にいる以上の重要なことはないのだが。
「室井さん、電話」
「別に構わない。仕事なら携帯に来るだろうから。それにすぐ、留守電に変わる」
数回のコール音のあと、機械に登録された音声が留守録の案内をする。だが電話は切れないまま、発信音がした。誰かが伝言を残すらしい。こんなときに誰だと室井は心の中で舌打ちをした。だがそんな強気でいられるのも、メッセージが録音される数秒前までだった。
『……室井さんですか?』
部屋に流れた、やわらかな女性の声に、室井は固まった。彼女だ。
「彼女ですか?」
「……ああ」
かすかな異変ですら、腕の中にいるせいか青島にはすぐに伝わってしまうようで。隠す意味もないと正直に自白した。
彼女は続ける。
『お礼、あのとき言えなくて……。一緒にいられて、楽しかったです。ありがとう』
「宅電、教えたんですか」
「……いや、携帯のアドレスを送ったときにたまたま登録されたんじゃないか?」
「ふぅん」
なんだか雲行きが怪しいのは勘違いだろうか。いや、そうじゃない。だって青島の声色は不機嫌極まりないのだ。
留守電を切りに行きたいが、今度は逆に室井が抱きしめられてしまって動けない。
『それと、ちゃんと振ってくれて、よかったです。……室井さん、恋人のこと、本当にお好きなんですね。少し妬けちゃいました』
「……は?」
『あ、もう切れちゃいますよね?――それじゃあ、室井さん、お元気で。本当にありがとう』
彼女の声が途切れた。だがふたりともしばらく何も言えなかったため、部屋には奇妙な沈黙が訪れた。
「……室井さん」
抱きしめあったまま、たがいの様子をうかがっていた。しかしそれに焦れた青島がつぶやくように名前を呼ぶ。
室井は慌てた。さすがにあの留守電はまずかったんじゃないか、と必死で取り繕う。
「……今の伝言、忘れてくれないか」
「無理です」
きっぱりと断られた。その声が堅かったため、また怒らせたんだろうかと室井の内心は冷や汗だらけだ。
「青島……怒ってるか?」
「ちょーむかついてます。せっかく許してあげようと思ったのに」
「……どうやったら許してくれるんだ」
「そりゃ室井さんの態度次第かな?」
焦っているせいか、室井は気づいていなかった。青島が、抱きしめられながら背後で満面の笑顔を浮かべていることを。
「私が告白したとき、彼、困ったように恋人がいるんだ、って。でも二か月も会ってないって言うんです。なんだか悔しくって、それで私こう言ったんです。『そんなに会えなくて平気なんですか。それでも恋人って言えるの?』って」
マニキュアを塗った指が、コーヒーカップを掴んで口許に運んだ。一息ついてから、彼女は指を組んで話を続けた。
「そうしたら、室井さん、驚いたような顔したんです。まさかそんなこと言われるなんて思ってもみなかった、って感じの。私もちょっとびっくりしました。こういう顔もできるんだなって。私の前だと、いつもきっちりしてたから」
「それで、室井は何て?」
彼女は一倉の前で綺麗に微笑んだ。それから、そっと目を伏せてつぶやく。
『会えなくたって、一日たりとも忘れたことはない。……恋人って、そういうものじゃないのか?』
***
いつもと違う書き方ができて楽しかったです。
仮タイトルは「うっかりの連続」。うっかり→つい、に変えました。