はるのうた
東京に出てきて一番驚いたことは、春の訪れがとてもゆっくりだということだ。こっちでは冬と夏のあいだにうまくとけこみながら、徐々にまわりの姿や温度を変えていく。だから、気がつくともう梅雨間近で桜なんてとっくに緑の葉しか残っていない、ということも時々あった。雪解けのあとのモノクロの世界を一気に変化させる、足早な東北の春とは全然違うと最初の数年は戸惑ったりもしたものだ。
室井がそんなことをふと思い出したのは、仕事帰りの帰路の途中だった。
忙殺という言葉の意味を本気で思い知ったこの一月は、非番なんて夢のまた夢で、毎日家に帰ることすらできなかったのだ。やっと特捜がすべて解散し、一か月以上ぶり(正確な日時を数えるとむなしくなるのでやめている)の非番をもぎとって家へ向かう。すると日が長くなっていることと同時に、厚手のコートだとうっすら汗ばむようだと気づいた。
この一か月、そんなことを気にする余裕もなかったから、室井にしてみればいきなり春がやってきたような感覚を覚えたのだ。まるで故郷の春のように。
――なんだかすごく、懐かしい感じだ。
子供のころは、春が来ることが待ち遠しかった。桜の開花を家族の誰よりも心待ちにして、毎日すべて散り終えるまで並木道に通ったものだ。髪の毛に花びらをつけて帰ってくる息子を見て、母親は春が来たみたいだと微笑んだ。そんなものとっくに来ているのに、と言うと彼女は大人になればわかる、と花弁を一枚ずつとって、いとおしむように指でもてあそんでいた。
けれどもその意味を理解することなく大人になって、いつからか桜が咲いても見向きもしなくなった。東京に来てからはずっとだ。だから季節のうつくしさもやさしさも、何もかもを自分は故郷においてきたものだと思っていた。こんな風に、春を訪れを感じながら歩くことなんて二度とない、とも。
それを思い出させてくれたのは青島だった。彼は室井の、同じことを繰り返すだけで何もなかった日常を、明るく色とりどりに染め上げていった。青島といると、普通の日の、ほんのささいなことがとても大切でいとおしくなっていく。そんな感情を室井は初めて知ったし、そういうものがまだ自分に残っていたことに、ひどく戸惑った。けれども青島がそれをそっと包んでくれたから、こうして今、故郷の春を懐かしいと思い、春がだんだんと近づいてくることを嬉しく思えるのだろう。
――部屋に戻ったら電話をしよう。そして、花見の誘いでもしてみるか。
夜桜もいいですね、と青島はきっと快諾してくれるだろう。彼が室井の部屋に来るときみたいに、ふたりで手に酒のつまったコンビニの袋をぶら下げて、夜の公園に行くのもいいかもしれない。にぎやかな宴会とはまた違い、それはそれで楽しいはずだから。
思い立ったら吉日ということわざの通り、室井の足は少しずつ早まっていった。桜の話はもとより、とにかく声が聞きたかった。そう考えるともしかしたら花見なんてすべて青島に会うための口実でしかないのかもしれない。それはそれで別に構わなかった。そんな自分も嫌いじゃない。
官舎が見える距離までたどり着くと、室井はそれまで無意識に進めていた足をぴたりと止めた。目を見開く。モスグリーンのコートがこちらに向かってかけてくるからだ。自分の願望かとも思ったが、青島だって室井と同じ気持ちだったからここに来たのだろう。
「室井さん!」
名前を呼ばれて我に返る。そして室井もまた歩き出す。しかし本人には失礼だが、室井のほうへ駆けてくる青島の姿はまるで犬そのもので。思わずふきだしてしまった。
「何笑ってるんですか」
「いや……。それよりどうしたんだ」
青島が形のいい歯を見せた。
「室井さん明日非番だって真下に聞いたんです。だから来ちゃいました」
「……相変わらずだな、真下くんは」
「でもすっげー忙しかったって聞きましたよ。お疲れ様です。だからメールの返事もできなかったんですよねー」
そういえば何通か青島はメールを送ってくれた。ただ彼の言うとおり、目を通す暇はあっても返事をすることができず、しかも一度タイミングを失ってしまったために返事が送りにくくなり、結局そのままになってしまっていたのだ。
「嫌味か」
「いえ。皮肉です」
と真面目な顔で言ってから、堪えきれないように笑い出す。冗談だとわかっているから、室井も苦笑気味に謝った。
「室井さんからの連絡待ってたんじゃ一生会えなさそうだから、俺も明日非番にしたんですよ!すみれさんのランチと引き換えに」
「それは、かなり高くつきそうだな」
「なんか海浜公園の近くに新しいフレンチの店ができたって喜んでました。……ていうか、多分店じゃなくて財布ができたことが嬉しいんだろうけど」
青島は、給料日前なのにとなげきながらも、仕方ないと割り切っているようだった。どうやらいつも通り彼の日常はにぎやからしい。騒々しいだけだと最初は不快だった湾岸署も、今はうらやましいぐらいに人間味のあふれた、とてもいいところなんだろうと思うようになった。いくら聞いても彼らの話は飽きることがない。なにせ街中よりも騒ぎが起きるのだ。話題が尽きたときのほうがよっぽど恐ろしい気がする。
「とにかくうちに帰るか。それからゆっくり話そう」
「はい!俺室井さんに話したいことがいっぱいあるんですよ」
「……子供みたいだな」
「あ、今ばかにしたでしょ」
「してない。自意識過剰じゃないか?」
「ひっでぇーっ」
くだらない軽口を叩きあいながら部屋まで行くと、室井は先に靴を脱いで玄関を上がった。一段高いところにいるせいで、このときばかりは青島よりも身長が高くなる。だから、かがんで靴を脱ぐ彼の髪の毛に何かが付いていることにも気づいた。そっと手を伸ばして、髪をまさぐる。ちょうどつむじの上あたりだ。
「室井さん?」
「ちょっとそのままでいてくれ。何かついてるぞ」
栗色の髪から室井の指にしっとりと何かがなじむ。それをそっとつかみ、手を引いて確かめてみて、驚いた。
「……室井さん?ちょっと、どうしたんですか?」
「桜か……?」
一枚の、白に近い桃色をした花弁。それを運んできた張本人は背筋を伸ばして室井の手元を覗き込んで、嬉しそうに、楽しそうに笑った。それはまるで、今日あった出来事を母親に一から十まで全部話す子供みたいに無邪気な表情だった。
「今日あったかかったでしょ?それで咲いちゃったっぽいです。通報に出かけた帰りに見かけて、すっごく綺麗だからつい木のところまで寄っちゃって、花びらだらけになっちゃったんですよ」
まだ残ってたんだ、と目を細める青島を思わず抱きしめた。一か月ぶりだったが、変わらない煙草の匂いが鼻をくすぐってくる。突然のことでわけがわからないためか、腕の中から青島が名前を呼んできた。けれどもそれには答えずに、さっき花びらを運んできた、やわらかな髪の毛に顔をうずめた。
「……春が来たみたいだ」
母親の、あのときの言葉の意味がやっとわかった気がした。
大人になって季節をあまり感じることがなくなったけれど、こうして大事なひとが運んできてくれるもののおかげでわかるのだ。春が来ているのだ、と。
ますますわからない、と青島が呟いた。
「何言ってるんですか。もうとっくに来てますよ!春」
それが昔の自分が尋ねたことと同じ内容だったので、からかうような口調でささやいた。
「大人になればわかるんじゃないか」
でも、わからなくてもいいと思う。青島は、このままでいてくれれば、それで十分なのだ。大人と子供が混じったような彼だからこそ、色々なことを思い出させてくれたり、教えてくれたりするのだ。
「もうとっくにオトナですよ!」
いじけたようなトーンの声を聞きながら、未だ雪が残っているだろう故郷の風景を思い浮かべる。あの桜並木よりも綺麗なものなんてないのだと長いこと思い込んでいたが、たった一枚のこの花びらが、どこの桜のものよりもきれいに見えた。
「今度、花見にでも行くか?」
「……それ、俺のご機嫌取り?」
「いや、ただの口実かもしれない。そうすればお前に会えるから」
すると青島は急に黙りこくてしまったので、腕を開放して彼を見ると、困惑と呆れを足して割ったような感じだった。
「青島?」
「口実なんてなくったって、俺は会いに行きますけどね」
だから室井さんもそうしてくださいと言われれば、うなずかずにはいられない。ただ、それを実行に移せるかと聞かれたら、難しいかもしれないが。
「なら夜桜はなしか?」
「とんでもない!花見大好きですもん俺。室井さんと見るならまた格別だろうし」
調子のいいやつだ、とは言わなかった。きっと室井だって同じなのだ。青島がいれば、どんなちっぽけな桜だって、あの故郷の桜並木のように咲き誇って見えるのだろう。
「でも今は、桜よりも室井さんのほうが大事」
だからごめんねと青島が室井の指先についた花弁を床に落とす。ふわりと桜がフローリングに散っていくのと、ふたりが一か月ぶりに唇を重ねるのは、ほぼ同時だった。
***
ちょっと早いけど春のおはなし。桜を見かけました。多分梅じゃないと思いますが……(自信なし)。でも毎年桜咲くんですよ、その場所。
わたしのイメージでは、春→青島くん(カラフルなかんじ)、夏→雪乃さん(夏でも涼しげだし)と一倉さん→(ビアガーデンが似合う)、秋→すみれさん(食欲の秋)、冬→室井さん(秋田だし)、という感じがします。ちなみにクリスマスは真下。交渉人のイメージが抜けません。