オキシドールのキスを待つ

 犯人を確保するとき、揉みあいになった場所が悪かった。駅の階段の踊り場で、手錠をかけた瞬間犯人がぐらりと揺れた。まさかと思う暇もなく、重力に引っ張られて青島は十数段の階段から転落したのだ。
「まあ、奇跡っていえば奇跡よね。捻挫も骨折もなくって、右腕の擦り傷だけだもん」
「痛い痛い!ちょっとすみれさん、何でそんなぐりぐり押しつけてんの!」
「あら、痛い?じゃあもっとやっちゃおうかなー」
 あははと無邪気な笑い声とは裏腹に、すみれの目はちっとも緩んでいない。怒っている。さっきからずっと。それはわかっているのだが、どうして彼女が腹を立てているのか青島にはわからない。
「はい、終わったわよ。お風呂でしみるかもね」
「あのさあ、俺のこと小学生かなんかと勘違いしてない?」
「青島くん、図体は大きいけど中身はコドモじゃない」
「……すみれさーん」
 恐ろしく毒舌な彼女はべ、っと舌を出して医務室から出て行った。かわいいなあと思いつつも、どうも釈然としない。首を捻りながら刑事課に戻ったが、年明けの忙しさで結局思考からすっかり零れ落ちていた。
「青島くん、携帯光ってるよ」
 右上のランプが虹色に点滅していた。一通のメールに思わず破顔した。
「え、なに青島くん気持ち悪いよ」
 いつの間にか刑事課に来て、袴田のゴルフクラブを振っていた神田がメールを覗こうとしてくる。
「プライバシーの侵害っすよ!署長が犯罪してどーするんですか」
「今って取り調べ室開いてたっけ?」
 魚住が声を張り上げる。
「さっき一番が開きました。あと三番」
「よかったですね署長。やっと刑事課にも居場所ができて」
 にっこりと非常にきつい一言を雪乃が告げる。空気が凍ったのは気のせいではないはずだ。
「え、なに僕居場所ないの?」
「とりあえずそこでスイングされるとすっごーく邪魔。あ、部長、スリの常習犯確保しました。今から取調室使います」
 手がふさがっているためか、文字通り神田を一蹴したすみれはちらっと青島のほうを見て、そのまま取調室に直行した。ちなみに一番はちゃんと開けてある。
「……なんだろ」
「青島さん、ほんとに気づいてないんですか?」
「や、すみれさんが怒ってんのはわかってんだけど……」
 首を捻りながらメールを開く。忙しいだろうので、題名に待ってますとだけ打った。それだけで十分。相手からのメールも一言、迎えに行くとだけだったので。
「きっと今夜わかりますよ」
「え、何で今夜?」
「だって室井さんと会うんですよね?」
「いや、まあ……。だけど、なんで?」
「ふふ。秘密です」
 ちょうどそのとき電話が鳴った。現場に行こうと立ち上がると、雪乃がにっこりと微笑んで走っていく。隣にいた森下の肩を叩くのも忘れない。はっと時計を見ると、定時まで一時間ちょっとだった。たぶんこの通報に出向いて取り調べ、報告書まで終わらせるとなると待ち合わせの時間に遅れてしまう。雪乃なりの気遣いなんだろう。嬉しいけれど、ちょっと複雑だ。
「青島くん、暇ならさっきの報告書書いて」
「はーい……」
 何枚か没にして、やっと書類を埋め終わると定時ちょうどだった。雪乃たちはまだ戻ってこない。どうしようか迷っていると、魚住が手を振って追い払うようなジェスチャーをした。
「残業代は出ないんだからさ。もう上がりなよ」
「はあ……」
 よくわからないが、なんだか今日は優しくされているような気が、しないでもないような、そうでもないような。まあ、せっかくの好意だし、早く室井に会いたかったのでそれに甘えることにした。
 待ち合わせの路上駐車場まで歩いていると、軽いクラクションの音がする。振り向けば、運転席の男がかるく口元を上げた。迷わず助手席に乗り込む。指定席となったその場所にどっかりと座ると、見計らったように車は発進した。
「なんか久しぶりっすね。室井さんが車運転してんの」
「そうだな。いきなりメールしてすまなかった」
「何言ってんすか。全然大歓迎です」
 ふたりきりになると、まず最近の出来事を語るのが慣習になっていた。といっても、ほとんど話し手は青島だが。そして意外にも室井はこれを楽しみにしているらしい。昔のように、頻繁に湾岸署に出向いてるみたいだと苦笑をしていた。きっと、内部の人間よりも内部事情に詳しいに違いない。
 今日も例に漏れず、最近の出来事を一通り言ったのだが、階段から落ちたことと、すみれが怒っていることは口にしなかった。なんとなく恥ずかしいし、怪我もほとんどなかったのだから、むやみに心配させる必要もないだろうと思ったのだ。
「で、署長が『みんな僕に最近冷たいよね』ってもううるさいんですよ」
「……暇なんだな」
「まあ、署長は。俺たちはそうでもないっすけど。丸の内署はあれじゃあ夢のまた夢、って感じっすか」
 車のスピードがだんだん落ちていく。室井の左手がせわしなく動いて、ギアを落としていった。赤いテールランプがカーブに沿って、きらきらと眩しく存在を主張している。どうやら渋滞に引っかかったらしい。これはしばらく動きそうにないな、と室井がつぶやいた。
「真っ赤っすねー」
 当たり前のことをなんとなく口にして右を見ると、なぜか室井の顔がものすごく近い場所にあった。キスもその先もしている仲なのに、どうしても不意打ちにはなれなくて身体をよじる。頭を天井にぶつけてしまった。
「室井さん?ちょ、なんすか」
「……変な匂いがする」
「え、俺香水とかつけてないし。汗臭いっすか?」
「いや、そうじゃなくて、もっと別の……」
 言葉を切った室井の眉間には深い皺が寄っていた。これは怒りモードだ、でもなんで、と警戒を強めていたら、いきなり室井は言い放った。
「脱げ」
「は?」
「だから脱ぐんだ、今すぐ」
「え、いやいやいや室井さん、それはちょっと……」
 ――や、こんなぴかぴかの窓ガラスをした車のなかでそんなこと出来ないだろ。しかもここは路上で、渋滞中で、最近会ってなかったから確かに触りたいしこの時間はもどかしいけど、でも。
「……なに百面相してるんだ」
「だって室井さんが変なこと言うから」
「変なこと?上着を脱ぐことがか?」
 奇妙な沈黙が車内を支配した。後続車からのけたたましいクラクションがそれを破り、慌てて室井が半クラッチで車を動かす。互いに互いが言った(思った)ことを考えなおし、焦っていたのだ。
「えっと、で、何で俺が上脱がなきゃいけないんですか?」
「……怪我しただろ、しかも今日」
「え」
「オキシドールの匂いだ」
「あ、だからさっき変な匂いって……」
 そこまで言ってから、はっとして横を向くが、時すでに遅し。
「どうして黙ってたんだ」
 室井の尋問は紳士的だが絶対に妥協はしないのだ。彼の望む回答をするまで話してはくれない。だから嫌だったのに、と溜息をつきながら、結局官舎に着くまで洗いざらい話してしまった。

「青島」
 帰ってすぐ、ベッドの上に押し倒された。腹減ったと駄々をこねてみたがすべて無視され、あっという間に上半身を裸にされてしまった。
「ここか?」
 ゆっくりと慎重な手つきで室井は腕に張られたガーゼをはがしていく。電流の走るような軽い痛みに眉をしかめると、すまない、と謝られて文句も言えなくなってしまう。
「結構深く擦りむいてるな」
「追ってる間、暑くて。ちょうど腕まくってたらやっちゃいました」
 熱い唇が、引っ掻いたように赤くみみず腫れした傷口をたどっていく。苦いな、と言うわりに何度も何度も、丹念に。
「ちょ……室井さん」
「わからないのか、おまえは」
「なにが?」
「恩田君のこと、柏木君のこと、魚住係長のこと、――俺のこと」
「は?」
 さっき、今日の不可解な怒りやら優しさのことも報告したのだが、なぜ当事者じゃない室井がわかるのだろう。
「おまえは、時々すごく鈍い」
 静かな声が胸のなかに落ちて、波紋を作った。室井の唇は腕から腰の、古傷に移った。もう痛くもかゆくもないその大きなしるしをきつく吸われて身体が震える。
「おまえのことが大事だから、心配するんだ。もしかしたら、頭を打っていたかもしれない。他のどこかを怪我していたかもしれない。それなのに、おまえは全然無頓着で、だから恩田君は怒ったんだろう」
 顔をあげた室井と目が合う。どこまでも真剣でまっすぐで、怒っているかと思ったら優しい色をしていたから、すこし困った。
「……明日、謝ってきます」
「そうか」
「室井さんも、心配してくれた?」
「当たり前だ」
 すこし拗ねたように言う姿がおかしくて、青島は彼のおでこに唇を当てる。固められた髪をぐしゃぐしゃに乱して、せっかくだからしましょうか、と言ってみた。
「腹減ったんじゃないのか」
「とりあえず室井さん欠乏症で死にそう。そっちから補給します」
「終わったら、何か作ってやる」
 キスはなぜか苦くて顔をしかめたら、オキシドールの味だなと室井が笑った。
「また後でつけるか」
「室井さん、ぐりぐり擦んないでくださいよ」
「良薬口に苦し、だな」
 今日はなんだか絶対に勝てないような気がして、青島はおとなしく白旗をあげた。たまには甘やかされるのも悪くないから、目を閉じて、苦い苦いキスを待つ。



***
 なんとなく思いついた話。久しぶりに室井さんがかっこいい室青を書いた気がします。