つまづいた、その瞬間
背広の向こうにある背中は思ったよりもあたたかくて、少しどきどきした。
「……酔ったのか?」
「だいじょーぶです。これでも元営業っすよ」
「今つまづいたろ。タクシー呼んでやるから、ちょっと待ってろ」
「まだ飲みましょうよ。室井さん、全っ然余裕じゃないっすか」
「俺は酒に強いんだ。お前は明日の仕事に響く」
「ちぇー……」
そのまま車内に押し込まれて、先に室井が料金を支払う。愛されてんな俺、と思ったらちょっとさみしくなった。彼が自分を見る目はいつも、父親に似た色をしているから。そこには恋愛感情のかけらもない。
「家で飲むなよ」
「わかってますよ。あ、タクシー代あとで返します」
「気にしなくていい。……おやすみ。また飲もう」
「楽しみにしてます。おやすみなさい」
走り出したタクシーが、室井の姿を小さくしていく。運転手に「あれ俺の上司なんです」と言ったら、「兄弟みたいに仲がいいんですね」と言われた。誤魔化すように笑い返す。
愛している、と室井に伝えたことはない。これから伝える気もない。友人でいられればそれでいいなんて綺麗事は言えないけど、だからといって室井にこれ以上重荷を背負わせたくなかった。
酒の席での言葉を思い出す。
『なんで未だに日本は結婚を出世の糸口にするんだろうな』
『見合いでも勧められたんですか?』
『……まあ、な』
『受けたの?』
『いや。正直いって、家でも他人に気を使いたくないんだ。出世のために結婚して、冷えた家になんか帰りたくない』
『意外と情熱的っすねぇ』
からかいを言葉に混じらせたけど、青島はそれ以上なにも言えなかった。
室井の目が、いとおしむように、どこか遠くに向けられたから。今まで自分が触れることのできなかったその視線の相手を、彼は未だに忘れられないのだろう。
『結婚は、本当に好きな相手としたいんだ』
タクシーの中で、乗車する前に触れた熱の温度を思い出す。
「酔ってないよ、室井さん……」
青島は酒には強いほうだ。室井ほどではないけれど、潰れたことも悪酔いしたこともない。
わざとつまづくふりをした。酔いのせいにして、そっと室井の背中に触れてみた。ごわごわとした、それでも上質なスーツごしに彼の熱が伝わってきて、心臓が音をたてた。
――これじゃあ、中学生の片思いだ。
それでもわかってるのに、室井に近付きたくなる。その身体に触れたくなる。好きだと叫びたくなる。欲望だらけだ。それでもそれを抑えて、青島は笑う。今の関係を壊したくはない。間違えて一歩踏み出せば、それがきっと命取りになると思うから。
「お客さん、着きましたよ」
ふと顔をあげると、見慣れたアパートと苦笑する運転手と目が合った。青島もなんとなく恥ずかしくなって、会釈してから車から降りる。あまり新しいとはいえない階段を重い足取りで登った。部屋に入って、ベッドに飛び込んでつぶやく。
「室井さんがすきだー……」
掌を見つめる。
まだあの熱が残ってるような気がして、今度はそっと自分の背中に手を回した。抱き締められるように、抱き締めるように。
***
室井さん←青島くん。
スピッツのインディゴ地平線が元ネタ。室井さんが大好きだけど室井さんが誰か(別にえりこさんでも誰でもいいんですけどね)を大好きなのを知っている青島くん。