もうどーにもとまんない

 ふたりきりで会えば、いい雰囲気になる、つまり有り体に言うと互いに欲情してるような、そんな空気に変わるときだってもちろん、ある。
「……あ、えっと」
 だが、そんなことを気にしているのはどうやら青島だけのようで、さっきまで重ねていた唇をあっさり解放すると、室井は高価な腕時計を見、立ち上がってしまう。
「悪い。終電に間に合わない」
「え、もうそんな時間っすか……。室井さん明日も会議?」
「早朝だ。まったく、年寄り連中は朝が早いらしい」
「んなこと聞かれたらどっか飛ばされちゃいますよ?どうするんですか孤島の駐在所のおまわりさんになっちゃったら。室井さん麦わら帽子似合わないからだめですよ」
「どんな想像だ……。大体外では言わない。こんなのお前の前だけでだ。――じゃあな、青島」
 手渡したコートを着て、少し微笑んだ室井はいつものキャリア官僚という顔に戻った。そしてためらいもせず、帰っていく。
 人の気配が消えたアパートの部屋は、妙に寒いような、物足りないような感じがした。
「……したいの、俺だけ?」
 別に青島は抱こうが抱かれようが一向に構わなかった。男相手に経験があるわけでもないけど、室井なら大丈夫という根拠のない思いがある。だから、ふたりきりでいるときは、多分もう目が訴えてるはずなのだ。俺はあんたとセックスしたいんだ、と。
「てか、今度はいつ会えるんだろ……」
 いい年した男ふたりが一線を越えるために倒さなければならない敵は、時間と終電と愛しい恋人、なのかもしれない。
 とりあえず青島は、次は絶対官舎に押しかけてやる!と心に堅く誓った。


 新木場駅まで歩く道程がやけに遠い。室井は静かに、けれどかなり重い溜息(友人曰く「まるで自殺でもしそうな」)をはきだした。
 帰る間際の青島の顔は、本人は無意識なのだろうが、泣くのを我慢する子供のようで、思わず抱き締めてやりたくなるようなものだった。そんな自分を抑えるために、さっさと家を出てしまったのだが、考えてみれば次いつ会えるかわからない。いっそのこと抱き締められればよかった、と思ってしまい、室井はそれにまた自己嫌悪する。
 青島が何を望んでいるかは、あの瞳の色を見れば一目瞭然だ。そして室井もそれと同じことを望んでいる。だが、彼は本当にわかっているのだろうか。室井が望んでいることは、もしかしたら、青島を傷つけ、彼のオトコという性を変えてしまうかもしれないということを。
(……もう少し、時間がほしいんだ。彼を傷つけないために)
 彼といると、理性が守れない。すべてを捨ててめちゃくちゃにしてやりたい、でも本当にそうなって、青島を無意識下で傷つけてしまうのが怖い。――会うたびに起こす葛藤は、青島に見せられないほどの、ドロドロとした黒い色を伴っていた。
(とりあえず、当分、会うのは止そう)
 次にあんな目をされたら、室井の理性だって多分もたない。そうなってしまえば遅いのだ、自分たちは。
 ただでさえ男同士という境遇のなか、こうして付き合えたのは、奇跡といっても過言じゃないと室井はそう思っている。だから大事に、失くさないようにしたい――というのは建前で、本当は嫌われたくないのだ。青島に。
 様々な煩悩を抱えながら足を進める室井だが、この三日後、青島が自分の部屋のベッドの上で寝ているなんて、思ってもみなかった。


 久しぶりに来た室井の部屋はやっぱり物がないし綺麗だった。随分前にもらって出番がなかった合鍵は、やっと自分の職務を果たし、青島のコートのポケットの中で眠っている。
「さてと……どうしようかなぁ」
 夜勤プラス被疑者の取り調べでまったく寝ずに夕方を迎えたため、青島のテンションはいささかおかしかった。ずかずかと家に上がると、そのまま寝室に直進し、大きめのベッドにダイブする。
「ふかふかしてる……さすが金持ち……」
 値段に比例する心地よさのベッドからは、ふわりと室井の残り香が漂った。そのせいで体温が上昇するのと同時に、あまりの気持ちよさに目を閉じてしまう。最近スキンシップもめっきり減ってしまったので、こうして室井の匂いを嗅ぐこともなかった。
「ん……」
 気がついたら、青島は深い眠りに落ちていた。


 午後9時。意外と早く帰れたと室井が自宅に入ると、見慣れているが異質な――つまりここにあるのがおかしい靴が並んでいた。
「……青島?」
 持ち主を呼んでみるが返事がない。首を傾げる。鍵は前に渡したことがあるのでここに彼がいてもおかしくはないが、いられたら困るのは事実である。青島は多分、頑として動かないだろうから。
 溜息をひとつつきながら、室井はリビングまで歩いていく。しかし明かりも点いていなければ、青島もいない。
「青島?どこだ?」
 まさか神隠し、のわけないだろとひとりツッコミをしながら、室井は部屋中を探す。バスルームにもトイレにもいない、となると外だろうか。いや、靴があるのだからここにいるはずだ。すると、可能性はあの部屋しかない。
「寝室……か?まさか」
 ドアをゆっくり明け、蛍光灯のスイッチを手探りで見つけて押す。一気に室内が明るくなり、室井は目を細めた。そして部屋を見回す。
「……ここにいたのか」
 しかも、よりにもよってベッドの上に。
 いつも室井が使う毛布を抱き締めながら、青島は身体を縮めて安らかな寝息をたてている。顔にはうっすらと疲れの痕が残っていて、夜勤明けかと苦笑した。
 ベッドの端に座ると、スプリングが悲鳴をあげた。それに構わず、室井は青島の髪を撫でる。気持ちよさそうに彼が息をはく。はっと室井は身体を強張らせた。まずい。このままじゃ。
「……青島、起きろ」
 身体を何度か揺さぶると、彼の瞼がゆっくりと震え、黒い瞳が現れる。ぼんやりした青島は、室井の存在に気づくと綺麗に微笑んだ。
「むろいさん」
 青島は腕を広げ、室井の背中に掌を当て、強く引き寄せる。さっきの毛布と同じように、室井は青島に抱き締められていた。
「本物の室井さんだぁ……」
 室井は彼から逃れようとした。寝ぼけた甘い声が耳元で聞こえ、理性は焼かれていく。身体中は青島を欲していた。
「青島、離してくれないか?」
 その言葉を告げた途端、くっついている身体が固まった。そして、声のトーンが変わる。
「……嫌ですか、やっぱ、男だと」
「青島?」
「俺はね、別にいいんです。オトコだけど、抱かれたって構わない。室井さんになら。……でも室井さんは、そうじゃないんでしょ?」
 戸惑う室井の身体をさっさと離し、青島は立ち上がる。着たまま寝ていたため、少し皺になった緑のコートから何かを取り出して、室井に投げた。
「今までありがとうございました。それ、お返しします。――今度は男になんか渡しちゃだめっすよ」
 眩しい電気のしたで、間違いなく青島は笑っている。端から見れば別れに未練のないような印象を受けるだろう。しかし、室井は違った。室井には、青島が先日と同じ、泣きそうな、迷子の子供のように見えるのだ。そして、直感がささやく、今彼を見送ったら、きっともう二度と交わることはない、と。
 踵を返す青島を、今だけは打算も煩悩もなしに室井は抱き締める。彼が無言で暴れるのも構わず、腕に力を込め続けた。
「すまなかった」
「なんで……っ、も、いいですよ、本当に。嫌なんでしょ?」
「嫌じゃない」
「嘘だ」
「嫌なわけないだろ。……俺は、お前を抱きたい。ずっとそう思ってる」
 真実を告げると、青島はうそだよと小さく呟いた。それを否定するために、室井は彼の身体を自分のほうに向けさせ、唇を奪った。
「……お前といると、理性に自信がなくなるんだ。青島を傷つけるかもしれない」
「拒否されるほうが傷つきますよ、フツーに」
「すまない。……俺に愛想は尽きたか?」
「簡単につくならとっくに帰ってますよ。ね、室井さん、俺は傷つきません。室井さんが理性なくしちゃうなら、嬉しい」
「嬉しい?」
 青島が笑う。涙目ぎみの目を細めた。
「嬉しいですよ。そりゃ、俺のせいで室井さんの理性が飛ぶなら。……明日は会議ある?」
「愚問だ、そんなの。――青島、これだけは約束してくれ。お前が嫌なことがあったら、俺を蹴ってもいいから逃げてほしい」
 唇同士が触れ合いそうな距離でささやくと、青島は目を丸くした。そして室井の首に腕を絡めてにっこりと笑う。
「逃げませんよ。だって、室井さんは俺の嫌がることなんか、絶対しない」
「……すごい自信だな」
「室井さんは俺の信じたオトコっすよー?」
 昔、自分たちを繋いでくれた大事な言葉を青島はまた告げる。軽い言い方だったが、瞳は真剣だった。やっと室井も静かに微笑む。あとはもう、言葉なんて必要なかった。


「……寝てるときは、眉間に皺ないんだ」
 このほうが全然いいのにと苦笑しながら、青島は肘をついて室井を見つめる。彼は眠ったまま動かない。起きているときよりも優しい表情を浮かべていた。
 昨夜の名残か、腰は甘いだるさを残している。少し痛むにも関わらず幸せなのは、やはり室井のおかげなのだと思う。理性をなくしたって室井は室井で、青島の思ったとおり、何かを強要することもなく、かなり優しかった。丁重に扱われたせいか、腰は予想よりもはるかに痛まなかったし。
「あとで鍵、またもらおう」
 あの鍵は自分と室井を結んでくれた大事なものだから。あれを返すようなことは、きっともう起こらない。起こしたくない。
 空もまだ色付いていない時間帯、青島はもう一度室井の胸の中にもぐりこんだ。

***
開き直ったら積極的なのは室井さん。
開き直るまで積極的なのは青島くん。バランスをとってます。