オーバー・ザ・レインボウ
病院は嫌いだ。あの非現実のような白い建物に漂う消毒液のにおいだとか、ストレッチャーが動く音や誰かが泣き叫ぶ声とか、かといえば、廊下が物音すら言わせないくらい、しんと静まりかえっていたりだとか。廊下を歩く自分の足音ですら妙に響きわたって、すこしこわい。
二度と来たくない、と思ったのに、大事な女性を自分と同じような状況に合わせてしまったことを、青島は心底後悔していた。
そんな気持ちが顔にでていたのだろうか。ストレッチャーで運ばれる途中、すみれは青島をなだめるように強がって見せた。
「……青島くん」
「ん?」
ちいさな声を聞き取るためには、顔をぐっと近づければならない。間近で見たすみれはまつげを伏せて微笑んでいた。
下の階ではわからなかったが、この病院からは、レインボーブリッジのイルミネーションがよく見える。屋上に設置されているベンチに腰掛けながら、青島は白い息をはいた。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
後ろから差し出された熱い缶コーヒーは掌の温度をあっという間に上げていく。プルタブを引くのがもったいなくて、しばらくはそうして暖をとっていた。
ブラックコーヒーを手に持ちながら、室井が隣に腰かける。すこし横にずれてスペースを開けたが、意味はあったのだろうか。
彼は早々にタブを開け、中身を飲んでいた。熱くないのかなと思ったが、別に聞く必要もなかった。室井と一緒のときは、沈黙が許されるのだから。
青島がプルタブを開けた音で静寂が破られた。
「……前にもあったな」
「はい?」
「缶コーヒー。あのときは、君からもらった」
そういえばそんなこともあった。あのときは、室井があまりにも疲れているようで、でも、どうしたらいいのかわからなかった苦肉の策だった。120円ちょっとであんなに元気になるとは思わなかったが。
「ああ。それで室井さんが自販機入れてくれた、と。あんとき大変だったんすよ。現場から帰ってきたら、いきなり業者が来てがちゃがちゃやってて。課長は驚いて署長のとこに行っちゃって、おめえ何したんだ、って和久さんに小突かれるし。すみれさんはあっちのメーカーのがいいってごねちゃって」
一段落したあと、魚住がぼそっと「キャリアってやっぱりわかんないよねえ」と言ったのが妙にしみじみとみんなの共感を買っていた。その様子を身振り口ぶりを交えて話すと、室井は嘆息していた。なので慌てて嫌味じゃないですよ、と付け加える。
「俺嬉しかったっすよ。室井さん見舞いにも来てくれないから、てっきり忘れてるのかと思いましたし」
「……見舞いには行った」
嘘をつくとき、彼はいつも右上を一瞬見る癖がある。青島はぷっと吹き出す。
「会わないで帰るのは見舞ったって言いません。和久さんから全部聞いてます」
「……すまなかった」
「や、そんなマジに謝られても。じゃなくて。俺、だから嬉しかったんですよ。自販機もそうだけど、室井さんの気持ちが」
そこまで言ってから、青島ははっと思いだした。
自販機の前に、もうひとつ、彼からもらっていたものがある。自分じゃ到底買えない(買う気にもなれない)一着のスーツ。刑事になりたてのころ、ひょんなことがきっかけで、室井が買ってくれたのだ。正確には、出世払いで返す、ということだったが。
「……室井さん」
「どうした?」
暗闇のなかでもよく見える、瞳の輝きが青島を見つめてくる。そのなかに映る自分は今、どんな姿をしているのだろうか。
「すいません。スーツ、汚しちゃったかもしれないです。俺、あのとき夢中で、全然考えてなくて……」
「スーツ?」
脈絡のない話が理解できなかったようで、室井は眉の皺を深くした。が、すぐに思い当たったようだった。ああ、とつぶやいて、首を振った。
「恩田君のためだったんだろ」
「はい」
血まみれになったすみれを抱きしめたとき、初めて、その身体の細さとちいささを知った。いつも気丈に、気高く振るまっていたから、そんなこと感じたこともなかったし、もしかしたら彼女を失うかもしれないという恐怖もまた、青島は初めて知った。
「すみれさんが、冷えてくのが、怖かった」
誰にも言わなかった出来事が、するりと口から滑り落ちる。室井は黙ったまま、その先を促した。
「わかるんです。血がすげえ熱いのに、身体だけがどんどんつめたくなってって、すごく怖くて、夢中で抱きしめてて、でも、止めらんなくて」
自分が刺されたときも同じだったのか、青島にはわからない。けれども抗えないくらい強く、間近に死が迫ってくるのを目の当たりにして、頭がおかしくなりそうだった。
「……恩田君は、大丈夫だ」
ぽん、とあやすように手が頭の上に置かれる。指先が髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜていった。まさか室井がそんなことをするとは思わなかったけれど、それが不思議とやさしくて、身体の奥から力が抜けていく。
もう一度、室井が大丈夫だ、と言った。
「彼女は強い」
「んなこと、言われなくたってわかってますよ」
口では強がってみたものの、自分でも気づかない間に緊張していたのかもしれない。ほんとうは、ずっと怖かったのかもしれない。それを、なぜか室井は知っていた。
「俺が――」
怪我したとき、室井さんもこんな気持ちだったんですか?
喉元まででかかったそれを抑えて、何でもないと笑ってみせた。怪訝そうな顔をしていたが、気にはしてないようで安心した。
すこし冷めたコーヒーを飲んでみると、ほんのりと甘い味がした。自分のはブラックを買ったくせに。
指先が離れていく。その情景がやけにゆっくりと感じられた。髪の毛にはまだその体温が残っていて、照れ隠しの代わりに、ぐしゃぐしゃにされた髪の毛を手櫛ですこし整える。
「……スーツなら、クリーニングに出せばいい」
「落ちますかね」
「落ちるだろ。――でも、まさか、そんなに長く使ってるとは思わなかった」
もうとっくに捨ててしまったと思っていたらしい。けれど、そんなことできるはずもなかった。安物のスーツに比べて、何年たったって、ボタンのひとつ取れないし布もすりきれない。おまけに、糸のほつれさえ見当たらなかった。もちろん、青島が他のものよりも大事にしているということもあるのだろうが。
でも、それ以上に、あのとき一緒にもらった室井の言葉が大事で、それを忘れたくなかった。
――君は、私の理想の警察官だ。
青島にとってあれは最大級の褒め言葉でもあると同時に、戒めでもあった。
――俺は、あなたに誇れるような、そんな刑事になりたい。
俺は、あなたが誇りに思ってくれるような、そんな刑事になれてますか。
このスーツに腕を通す季節が来るたびに、胸のなかでそれを問うてみた。でも、答えは出てこない。当然だ。それは、室井しか持ち合わせていないのだから。
「出世払い、し終わるまでずっと着ます」
「そっか」
払い終わるのが十年後でも二十年後でも、いつかが来るまでずっとこれを着て、現場に立っていたい。それが今の青島の、ささやかな夢のひとつだった。誰にも話したことはないし、きっと一生、室井に打ち明けることもないだろうけれど。
白い息が闇に溶けていく。それを目で追いながら、こっそりと室井を見た。彼はさっきからずっと、目の前に広がる真っ黒な東京湾と、光り輝く橋を眺めている。
「レインボーブリッジ、封鎖終わったみたいですね」
「ああ。封鎖したら早々に各関係から苦情が来たらしいからな」
さすがお役所、と肩をすくめてみせると、室井も納得のようで、まったくだとつぶやいた。
こうしてみると結構長いような橋の車道のうえに、つい数時間前、自分が立っていたということが未だに夢のようだった。
「俺、あれ走っちゃいましたね」
「ああ。――どうだった?」
「夢中で、なんも覚えてないです。あ、そういえばSATのひとが何か言ってたような……。ま、いっか」
周りの景色とか、車だとか、気にする余裕もなしにただ走り続けた。硬いコンクリートのせいで足の裏ががんがんと震えて、目標の車は確実にちいさくなっていった。
でも、彼らは青島のほうを向いた。ばかにするように嫌な笑いを浮かべて声をだして叫んで、そして、それが敗因になった。
「よくやったな」
二度目のそれに、首を振る。
「俺じゃないですよ。あれ、捕まえたの」
「確かに確保したのはSATだ。だが、そう意味じゃなくて」
「俺もそういう意味じゃないっす」
じゃあなんだ、と尋ねられたけれど、青島は唇の端から端まで指をすべらせた。俗にいう、お口にチャック。
「秘密です」
「……まったく」
――室井さん、言ったって、きっと信じないから。だから、俺と、あいつらだけが知ってれば、それでいい。
犯人たちが振り返ったのは偶然だった。それはあまりにしつこく青島が追いかけ続けたからかもしれない。
でも、彼らを捕まえたのは、間違いなく室井のあの判断だと断言できる。どこまでも走ることを彼が許してくれたから、だから追いかけることができた。だからSATが協力してくれた。
きっと室井は知らないだろう。会議室に入ってきたとき、声をはりあげたとき、階級も役職も関係ない、と言ったとき、どれだけ青島の心がふるえていたかなんて。
理想の警察官と室井は称してくれたけれど、青島にとって、あの瞬間、あの捜査は、自分がずっと焦がれていたものだった。警察にいて、室井を信じていてよかったと、心から思えるような。
それを表現するのはちょっと難しい。どんな言葉を使っても、あの犯人グループに叫んだ以上のものは見つからない気がするし、でも、それをそのまま伝えても、ちゃんと伝わらないような気がした。
だから、刑事でいればいい。態度で示せばいい。導き出せた答えはすごく当たり前でちっぽけだったけれど、それでいいんだと思う。
「なんか、不思議っすね」
「ん?」
「刑事になって、室井さんに会って、室井さんと勝手に捜査して、で、結局俺ら、ふたりとも色んなこと、変わっちゃったじゃないすか」
空になった缶を、設置されているごみ箱に投げ入れた。案外大きな音が鳴ってひやりとする。室井は律義に缶を歩いて捨てにいった。
階級、職場、立場、そしてなにより、ふたりでこうして会うことが、ほとんどなくなった。今回だって二年ぶりだったし、その前も、たぶんすれ違うことさえないぐらい離れていた。
「今、俺が湾岸署で刑事やってて、室井さんが一課の管理官で」
「悪かったな」
「責めてませんって」
彼の出世を妨げているのは間違いなく自分で、でも、それを絶対にひとのせいにしたりはしない。だから和久にまで不器用だと言われてしまうのだけど、だからこそ、青島は信じている。その真っ直ぐでいることができる力を、ひかりを。
「昔、っていうのもなんか変な感じしますけど。でも、出会ったときよりも、俺たち、すごく近くなった気がする」
一緒に特捜本部を放り出して捜査をした。あのとき以上に室井と近づくのはきっとないだろうと思っていた。けれども、こうして今、青島は青島の、室井は室井の、それぞれやるべきことをやってみたら、今までのどんなときよりも近づいたみたいだった。
「――そう、だな」
「俺、こんなの初めてっす」
「俺もだ」
隣にいるこの距離も、マイクで繋がれたあの距離も、どれもすべて、同じだった。ずっと遠回りしてきたけれど、気がつけば、またスタートラインに戻ってきて、でも、遥かに離れた場所を走っている。ふたりで。
「室井さん、俺、変わりましたか?」
ずっと尋ねたかった。大きな事件を求める自分を知ったとき、変わってしまったことが何より恐ろしかった。事件には大きいも小さいもない、と思っていたあのときの自分はもういないのか、と。
だが、彼はふっと口元を緩めて、首を振った。
「変わってない」
「本当に?」
思わず念を押してしまった。けれども室井は揺るがなかった。
「ああ。おまえは、おまえのままだ。相変わらず命令は無視するし、無茶はするし、突拍子のないことばかりする」
「……それ、誉めてます?」
「誉めてる」
「嘘つき」
右上をちょっと向いた視線に、ぶ、っと青島は噴き出して笑い声をあげた。くだらない冗談を言い合えるくらいには、お互い成長したらしい。というか、室井のコミュニケーション力が上がったのだろう。
そして、お決まりのように室井も同じ質問をぶつけてくる。
「俺は変わったか?」
六年がたった。色んなことを経験した。ちょっとずつ、何かが変わるのは当然のことだろう。でも。
「変わってない。室井さんも」
――頭が固くて、すげえ真面目で、意外と意地っ張りでキレると手がつけられないし。
こっそりと付け加えて、青島はほくそ笑んだ。室井が右眉をすこし上げる。なんでもないですよ、とさらっと流すと、それ以上は追及されなかった。本当に、お互い大人になったものだ。
波のざわめきが聞こえる。汚れきった東京の空は、星がちらほらとまたたいている。あと何時間もすれば夜明けがやってきて、室井は本部で事後処理に追われ、青島は裏付け捜査で走り回るのだろう。
ゆっくりと流れるこのやさしい時間を、どうしてだか、壊したくなくて、青島は口をつぐんでいた。
沈黙も空気もなにもかもがあたたかい。室井の傍にいると、ありのままの自分でいられる。それが何故なのか、もう青島は知っているような気がした。
「……俺、そんなあなたが、結構好きですよ」
頭で考えるまえに、口が動いていた。言ってから初めて、ああそうだったんだ、と胸のなかに言葉はすんなりと溶け込んでいく。
室井の様子をうかがうと、目をすこし開いていたが、あまりいつもと変わらなかった。もっと違うリアクションを期待してたのに、と思ったが、実は心臓がばくばくしている。焦りすぎると逆に脳はクリアになるらしい。
「結構?」
返ってきたのは、よりによってそんなもの。
「そこに突っ込むかなあ、ふつう」
「そこが大事なんじゃないか」
確かに。
「じゃあ室井さんはどうなんですか?俺が大好き愛してる!とか言っちゃったら」
やけっぱちで、苦し紛れであまりにもあまりな言葉をはいたことを、青島は心底後悔した。何言ってるんだ。ていうか何が言いたいんだ、俺。
「……嬉しい、って言ってほしいか」
室井は笑っている。貴重な笑顔を憎たらしいと思ったのは初めてだ。
「別に!」
「そうか」
あっさりと引きすぎだろ、と思ったが、さすがにプライドが邪魔をした。異様に気恥ずかしくなって立ち上がろうとしたら、手首を強く掴まれる。目の前には、室井の顔があった。とっさに目をつむる。
「好きだ」
波も風も全部止まったような、静かな場所で、それははっきりと聞こえすぎた。一瞬の熱が離れて、冷めて、目を開ける。夢でも見ていたんじゃないかというくらい、信じられなかった。
「まさか、先に言われるとは思わなかった」
「余裕だったじゃないですか」
「余裕なわけないだろ」
嘘つけと叫びたかった。でも、室井の視線は真っ直ぐに青島だけを見つめている。
嬉しいはずなのに嬉しくない。こんな微妙な気持ち、絶対忘れないだろう。子供みたいだとすみれに呆れられそうだけど。
「あ」
それで思い出した。
「どうした」
「いや、すみれさんが言ってたんですよ。治ったらキャビア食べにいきたいって」
「それで?」
「手術の前に『3人で』って言ってた」
ささやくようにつぶやかれたとき、全然意味がわからなかった。3人が誰を指すのかも。でも、この状況が答えだとしたら、なにもかも彼女は見透かしていたのだろうか。だとしたら、女性はやっぱり強い。
「……何で知ってたんだろ」
そうつぶやくと、室井はなにかをつぶやいた。聞き返すと、いや、と流される。
「そうだな。いい店があるか、聞いておくから」
すこし様子がおかしかったが、別に気にもしなかった。彼女と彼の接点なんてそうなかったように思えたので。
そろそろ戻るか、という声に待ったをかけるように、口を開く。
「結構、ってのは、嘘です」
ほんとはすごく好きだと伝えると、もう一度唇を重ねた。抱きしめあった身体の、首元から届く心臓のリズムが乱れている。やっぱり嘘じゃなかったのだ。
「知ってる」
「……ちょっとは喜んでくださいよ」
「喜んでるさ」
「だってなんも見えない」
拗ねたような口調になった。じゃあ離れるか、と聞かれたけれど、それは嫌だった。
もう、あとすこしだけでいいから、ここにいさせてほしい。そう願ったって、きっとすみれは怒らないだろう。あとでキャビアを大量におごらされるだろうが。
「青島」
「はい?」
ひそやかな空気のふるえが耳を揺らす。笑っているのだろうか。顔が見えないけれど、声のトーンですこぶる機嫌がいいことぐらいはわかった。
「嘘をつくとき、左に目線を持ってくのはやめたほうがいいぞ」
まばたきを数回した。慌てて身体をひきはがすと、やさしい表情の室井がいる。もう何も言えなくて、くやしくて、最後のあがきにキスをした。
***
サイト一周年記念のブツ。スーツの続きをいつか書きたいな、とは思っていたんだけど、なかなか形にならなくて、今回やっと書ききることができました。ちょっと室井さんにサービスしすぎたかな、と思いますが。
OD2はわたしがオドル(というか、室青)を好きになったきっかけで、個人的にはすごく思い入れの深い作品です。そして、やっと室井さんと青島くんの双方のベクトルが向かいあわせになったねよかったね!と思えるおはなしです。まあ、とりあえず幸せでいてくれればいいかな。