ジュテーム?
それなりに高級なマンションで、それなりに名高い大学病院に勤務している三上は、それなりに困っていた。理由は簡単。彼の恋人が部屋に籠城したままだ、という。
「いつまで拗ねてんだよ、水野」
返事はない。一時間に一回ぐらいのペースで呼びかけては見るものの、水野は完全無視の体制に入っている。うんともすんとも言わない扉に蹴りのひとつやふたつやみっつぐらい入れてやってもいいのだが、三上は溜息をつくとリビングにとりあえず戻った。
以前は、互いに怒りをぶちまけ物を飛ばし罵声を飛ばし、最終的に取っ組み合いという小学生もやらないような喧嘩をしたものだった。
だが、いつからか三上は大抵の喧嘩に関しては折れるようになったのだ。もちろん、水野が全面的に悪いときは臨戦する。しかし、感情的に怒ることはあまりなくなったと思う。元チームメイト兼共通の知人である渋沢いわく、大人になったんじゃないか、らしい。
「ったく。怒って拗ねて部屋にこもる、ってガキじゃねーか」
煙草を片手に、キッチンの換気扇の前で愚痴をこぼしながらコーヒーを入れる。もう二日近く会っていないが、インスタントの食材が減っていたり、ミネラルウォーターが冷蔵庫からなくなっているので、三上がいない間に水野は部屋から出ているのだろう。そんなに会いたくないなら家出でもすればいいのにとも思うが、実際に出て行かれたら多少なりとも困るので口にはしない。
それなりに、三上は水野のことを大事に思っていた。少なくともあの最悪の出会いから十年一緒にいる程度には。
しかし、三上が大人の分別を身につけているのに対し、水野はほとんど変わらなかった。相変わらずかわいげのない口調のまま、キレると手がつけられなくなる。ささいなことで怒りだす。
オマエは女か、とうっかり三上が怒鳴り返したら、そこらじゅうに置いてあるペンだとか本だとか新聞だとかを投げまくり、部屋から飛び出していったこともあった。あのときは水野が飛び込んだ先が渋沢の家だったので、彼の仲立ちのもと休戦条約を結べたのだ。あれがなかったら、こんな風に、一緒に暮らしてはいなかったかもしれない。
同居もとい同棲し始めたのは、ほんとうについ最近のことだ。水野の本拠地に近く、三上の収入で家賃が折半でき、セキュリティーも万全なところというわがままな条件だったが、ラッキーなことに一軒だけ見つかった。それがこの部屋だった。日当たりのよい十三階の、南向き。
部屋を見学したとき、おふたりの関係は、と聞かれた。高校のときの先輩後輩、というと、サッカーに疎い女性社員は、仲がよろしいんですね、と笑った。
水野は一連の会話に顔を赤くして俯いていた。案内されたこの部屋では、光がたっぷりと降り注いでいて、はっきりとそれが見えた。薄いブラウンのフローリングに広い窓、そして、隣にはなんだかんだで水野がいる。家具のひとつもない部屋なのに、三上はなぜかほっとした。幸せなのかもしれない、と思い、その瞬間から、この部屋はかけがえのない家になったのだ。
――いつになったら出てくんだか。
煙草がそろそろ灰になりかけている。ガラスの灰皿にそれを押しつけると、ブラックコーヒーを一口飲んだ。すっかり冷めてしまっている。
明日は一日休みだ。水野が根をあげるのも時間の問題だろう。飲み食いはともかく、彼は一日でも風呂に入らないと落ち着けない性分なので。
いつもなら部屋で勉強をする時間だが、三上はリビングで医学書を広げた。担当している患者の様子と比べながらノートにメモをとっていく。
内科医になった三上だが、大学病院での勤務はやはりきつい。体力的というよりも、精神的にだ。手術がない分まだましで、外科医はもっとひどいと聞く。どっちにしろ、簡単にはいかない職業だ。
水野も三上も、世間一般に比べるとかなり不規則な仕事をしていた。一緒に住んでいるのに会えないことなんてざらにある。
特に水野のシーズン中は、彼がアウェイで遠征していたり、帰宅しても、今度は三上のほうが夜勤だったりとすれ違いが多かった。それは水野が高校生Jリーガーになり、三上が医学生になった時点からずっと続いている。そして、きっとこれからも。
喧嘩に折れてやるようになったのは、精神的に大人になったとか、そんな理由ではない。もったいない、と三上は思ったのだ。会える時間が少ないのに、それで喧嘩して互いに怒って別れて、また会えない時間を重ねる。これほど不合理なことはない。だったら多少ムカついたって、自分が折れてやったほうがまだましだ、と。
――さっさと気づけよ、水野。
こんなに俺が愛してやってんのに、とあくびをしながら、もう一口、冷めたコーヒーを口にする。苦いと胃が訴えるが、とりあえず無視してノートを埋める。
Jリーグのオフシーズンは、一年のうちでふたりが最も一緒にいられる時期だった。多くもないこの時間を大事にしたいからこそ、籠城なんかされてはたまらない。だから三上は部屋に行かず、ここで水野を待つ。面倒でも、一時間ごとに声をかけにいく。
喧嘩の理由なんていつだって忘れてしまうくらい些細なもので、それを引きずるのは水野の悪い癖だ。昔っから変わらない。
「……んな寒いとこにいたら風邪ひくぞ」
でも、ちょっとは成長しているのだ。たぶん。
「別に寒くないし」
フローリングに立ち尽くす水野を、ノートから目を離さないまま三上は手招きした。床暖房があるので暖かいのは暖かいのだが、やはりフローリングに裸足だと寒々しく見える。
水野はぺたぺたと足音を鳴らしながら近づいてきて、ばつの悪そうな顔で、一瞬戸惑ったあと、ソファに沈んだ。
「ノートはドイツ語じゃねえの?」
「カルテじゃねえし。書く必要ないだろ」
ていうか、それ何回聞いてんだよと思ったが、突っ込んではかわいそうなので知らないふりをしてやった。
水野はちらちらとこっちをうかがって、やがて小声で、まだ怒ってる?とつぶやく。
「怒ってるに決まってんだろ」
「だってあれは!」
「喧嘩のことじゃねえ。籠城してインスタント食品なんか食って、オマエ、身体が資本なんだろーが」
「……それは、そうだけど」
ったく、と茶色い頭をかき交ぜると、水野は掠れそうなぐらい小声でごめんと言った。何に対する謝罪なのかはわからないが、とりあえずは一見落着だ。結局あまり厚くならなかった身体を抱きしめると、三上は嘆息した。
「最初っからくればいいんだよ。こーやって」
「あんたがうるさく呼ぶから出ていく気にもなんなかったんだよ」
「とか言って。オマエ、俺が呼ぶ頃になるとドアの近くにいただろ」
あのドアを開けて欲しがっていたことを、三上は知っていた。けれどもそれじゃ意味がない。自分だけなんてまっぴらごめんだ。あのドアを水野が自分で開いて、自分からここに来ることに意味がある。
「明日休みだから、どっか行くか。水野ここ二日閉じこもりっきりだったし?」
実はこっそり家出てたの知ってんぞ、という嫌味半分、本音半分で尋ねると、水野は首を振った。目線は広い窓を覆う、青いカーテンのほうに向いている。何か言いたいことがあるけれど、言えない。そんなときの水野の癖だ。もっとも、本人は気づいていないようだが。
「……めんどくさいから、家にいる」
そしてこの言葉は、水野なりの精一杯の、一緒にいたいというサイン。
素直じゃねえな、と笑うと、水野はむっとしてうるさいな、と力なく言い捨てた。首筋に唇をあてて、寝室へ誘うと案外素直にそれに応じる。さすがに罪悪感があるらしい。
いつもこのくらい殊勝でいてくれればいいのにと思ったが、それはそれで水野じゃない気がするので、もしかしたら、このままが一番いいのかもしれないと思った。
それなりにムカついて、それなりに幸せなこの生活が、三上はそれなりに気に入っている。
***
五年ぶりの三水でした。25歳設定で書こうと思ったけど、今研修医じゃん。近い未来ってことで。
三水はそれなりに成長して、でもやっぱり14歳15歳の時の面影が残っていて、どっちかっていうと水野のほうが子供なんかないかな、と思う。三上は逆に落ち着いた大人希望。楽しかったっす。